「大人のライターズ・サークル」研修を合計4回やって気づく「その人らしさ」。

今週の水曜日、軽井沢町内教職員の合同研修があった。これは、官製研修にしては珍しく、町内教職員が自分のやりたい講座を開ける仕組みになっていて、僕は今年、ピーター・エルボウ『自分の「声」で書く技術』を監訳された岩谷聡徳さんを講師役にお迎えして、「大人のライターズ・サークル」という講座を開いた。内容はとてもシンプルで、お互いにかいたものを持ち寄って読み合い、コメントしあう「ティーチャーレス・クラス」を中心とした書く講座である。

6月の第1回講座から、有志参加の8月、9月、そして今回の10月の第2回講座と、多い人とは4回の回数を重ねてくると、書き手としての「その人らしさ」のようなものも見えてくるし、それと同じかむしろそれ以上にコメントの仕方にも「らしさ」が見えて面白い

写真は9月に御小屋尾根から阿弥陀岳・中岳・赤岳を周回したときのもの。阿弥陀岳から中岳に降りるとき、朝日をあびて緑が明るい硫黄岳と、ゴツゴツした岩肌が影になる横岳の対比が鮮やかだった。

書き手としての自分らしさ

それはもちろん自分にも当てはまる言葉だ。僕もこのライターズサークルで4つの文章を出したのだが、そのうち3つは、僕の現在の関心をそのまま反映して山についての文章だった。このブログの読者の方には「最近あすこまのブログは更新が減っているなあ」と感じている方もいると思うが、実は僕の文章量自体は減っておらず、このブログとは別に、登山のふりかえり(これは基本的に誰にも見せないもの)や、所属する山岳会に提出する山行記録を書いている。たぶん、僕がこんなふうに登山について書いていることを、この会で見せるまで他の人はほとんど知らなかったと思う。最近はいわゆる登山道にない道もいくので「未知に向かっていく感じが、ふだんのあすこまさんのイメージと結びつかない」とも言われた。

そして僕の場合、他の人の指摘によると、どうやら最初から良くも悪くも「整った」文章を書く傾向にあるらしい。これは、たぶん他の人よりも文章を書く絶対量が多いので、フリーライティング(何もトピックを定めずにただ書くライティング)のつもりでも無意識に文章の完成形をイメージしてしまうのかもしれない(このブログだって大きな推敲はしていない)。そのことを「すごい」と言ってくれる人もいるけれど、一方で「整う」ことには、読者の目を意識した演技性がそこに含まれるから、どうしても小さくまとまってしまうというか、想定の範囲内に自分の文章を収めてしまう傾向もある。自分ではフリーライティングをしているつもりでも、実はフリーじゃない傾向が、自分の文章にはあるのかもしれない。それを突破したいとまでは思わないけど、でもそういう傾向があることを知っておくのは大事だな。

文章とその人らしさを結びつける

そして、今回のライターズサークルでは、それ以上に、他人のコメント(読み方)が面白かった。この際のコメントには「必ず全員がコメントしなくていい」「褒めるとか助言するとかを意識せず、ただ、読んで自分に浮かんだ映像を伝える」「コメントを聞いた書き手は、別にそれを受け入れなくていい」という基本的なやり方がある。

講師の岩谷さんの読み方については、6月の研修のあとに下記エントリにメモしたので繰り返さない。10月の今回も相変わらず、とても面白かったとだけ書いておこう。

ピーター・エルボウ『自分の「声」で書く技術』をもとに、「大人のライターズ・サークル」やってみた。

2024.06.23

そして、他のメンバーの読み方も参考になった。たとえばある人は、文章の単語と単語、段落と段落の関係や全体の構成を指摘する読み方をして、別のある人は、文章の細部とその人の日常の言動を結びつけて、文章ににじみでる「その人らしさ」を言葉にするような読み方をしていた。どちらも勉強になるけど、特に後者の読み方は、学校現場で「この文章のこういうところがふだんのあなたとこう結びつくよね」と言ってもらえると、児童生徒は嬉しいだろうなと思う。文章よりも人をよく観察しているからこそできる読み方だ。自分には限界もあるけど、この良さは取り入れたい。まずは、児童生徒をよく見ることと、岩谷さんのように、文章に書き込みをしながら、その書き手らしさをすくいとることだ。

書くデバイスの影響はあるのか?

もう一つ印象的だったのが、書くデバイスのこと。これは本当に人それぞれ。僕は基本的に毎回パソコンで書いた。パソコンの画面に打たれた文字を見ながら、そこから導き出されるように次の言葉を売っていくのが好きだ。そのせいか、僕の文章には、後置修飾のように後ろからすぐ前の文に補足したり、前の文から次の展開が生まれるものが多いらしい。ある参加者が「英語の関係代名詞のように」と評していて、なるほどそうなのかと新鮮に思った記憶がある。一方で、パソコンで書いてもしっくりこずに、やはり自分は手書きで、という人も6人中2人いた。パソコンで書くとどうしても画面の文字を見て立ち止まってしまうらしい。だから、デバイスがその人にどう作用するかには様々なケースがあり、自分とデバイスの双方によって書く現象が生まれるとしか言えない。そこにも、書き手らしさが存在する。

一度だけ、音声入力も試みてみたが、これは慣れない体験だった。まず、文章がなぜか敬体(ですます調)になってしまうし、誰もいない収録室でラジオ放送をしているような変な気持ちになる。しゃべることは書くことよりもずっと生身の身体性に迫ってくる行為のようで、どうしても架空の「聞き手」を意識した話し方になってしまうのだ。しかし、同じ10分のフリーライティングをすると、喋る方が量をたくさん書けることは間違いない。書くことと話すことの違いをどう乗り越えるかという問題はあるが、慣れれば記述量が圧倒的に増えるので、音声入力でどれくらい「書ける」か、試してみてもいいのかも。

とまあ、色々な体験ができた半年間で、とても面白い研修だった。結局読むことも書くことも「その人らしさ」から出発するのだなあ。講師の岩谷聡徳さん、参加者のみなさん、あらためてありがとうございました。そして、実際に自分も「書く」ことを続けることで気づくことって本当に大きい。できれば地域を超えて他校の先生たちも交えて、もっとやってみたいところだ。

この記事のシェアはこちらからどうぞ!