ラッキーディップが作文教育に問いかけるものとは?2022年度の授業開き「運だめ詩」ふりかえり

2022年の国語の授業も4月後半からスタート。今年度も小学5・6年生の国語を持つのだけど、今年の授業開き単元はラッキーディップ。ちなみに今回は「運だめ詩」という邦訳(笑)をつけました。今回のエントリはそのふりかえりです。特に、このラッキーディップが通常の作文の授業と異なる点が、どんな可能性を持つのかについて考えてしまった。

写真は4月下旬の小諸の懐古園。盛りはやや過ぎたけど、源平咲きの桜がきれいでした。

目次

ラッキーディップ(運だめ詩)って?

まず、ラッキーディップがどんな実践かは、下記のエントリを参照してほしい。もともとは自分で作った詩をもとにするのだけど、ぼくは既存の詩作品を使うようにしており、そこがオリジナルと大きく違うところだ。

強制と偶然の力で詩をつくる「ラッキーディップ」が面白い。

2020.07.26

ラッキーディップで授業開きをした理由

今回、このラッキーディップを授業開きに使おうとしたのは、次の3つの理由から。

  1. 失敗を恐れる気持ちのハードルが低く、誰でも楽しく取り組める
  2. GW前の短期間でも、作家のサイクルを経験できる
  3. 手を使って考えることを経験できる

上のエントリでも書いたが、ラッキーディップの良いところはなんといっても「本人が失敗しない」ところだ。仮にうまくいかなくても運のせいにできる。成功/失敗を気にしがちな子たちにとって、これは大きい。やっぱり、一年の最初は楽しくしたいしね。

それに加えて、「作家のサイクル」をとりあえず1回まわせちゃうところ、そして「手を使って操作する」を経験できるところも大きい。特に後者は、いきなりパソコンに向かいがちな風越の子どもたちに「手を使って、具体的なモノを動かしながら考える」ことの価値を伝えたい気持ちがあって、それにはラッキーディップがちょうどいいよな、と思った。

選んだ詩がラッキーディップを左右する

今回、選んだ詩は以下の通り。この5つの中から好きな3つを選んでラッキーディップをしてもらった。

  1. 牟礼慶子「見えないだけ」
  2. 鈴木敏史「手紙」
  3. 門倉詇「こころ解かれて」
  4. 北村蔦子「かがみの そばを とおる とき」
  5. 高階杞一「春のスイッチ」

おそらく、ラッキーディップの性格を大きく左右するのはこの時の詩のチョイスだ。似た傾向のものを入れることも、全然違うものを入れることもできる。前者のほうが知的ゲームとしての面白さは増すだろうが、今回は「失敗しない」「いい感じのものを作れる」ことを優先して、以前も使っていた①〜③を柱とした。それに、ちょっと毛色が違っており、また、小学生向けに易しい④と、春なのでおそらく選ぶ子が多いだろうと予想して⑤を入れた。案の定、⑤は多く選ばれた。

さらに今回は、5つの詩を用意してその中から3つを選んで一行ごとに短冊をつくってもらったのだが、制約をゆるくして、「手にとった短冊から選ばなくてもOK」「自分で言葉を付け加えたり削除したりしてもOK」とした。そして、ここまですれば、多くの子がなんとなく「良い感じ」のものができてしまうのだ。

その意味では狙い通りだったのだけど、一方で、多かれ少なかれ似た感じの作品が並ぶことになり、ラッキーディップ本来の「制約の厳しさが生む表現の意外な面白さ」は減ぜられてしまったかもしれない。

作品にフォーカスすることの功罪

今回、実はちょっと反省点もあった。ラッキーディップによる作品作りに2時間、残りの2時間はラボ(図工室)でその作品に背景を作る作業をして、保護者参観日にあわせて展示会をしたのだ。写真は短時間でつくった僕の例だけど、雰囲気はちょうどこんな感じ。

色とりどりの作品が仕上がって、子どもも子ども同士や保護者からコメントをたくさんもらえて、きっと楽しい経験になったと思う。一年のはじまりに、色んな人から自分の作品にコメントがもらえるのはいいことだ。そう単純に考えていたのだけど、しばらくして、あれは良かったのかな、と疑問に思うようになった。

というのも、ラッキーディップの良いところは成功/失敗を気にしないで手を動かすうちに意外なことばの組み合わせの面白さに出会える、そのプロセスにある。極端なことを言えば、できあがった作品はどうでもいい。でも、僕は子どもたちのラッキーディップにわざわざ背景までつけて展示させたので、作品にフォーカスしてしまったわけだ。コメントがもらえて嬉しそうだったから結果オーライな気もするけど、この功罪はありそう。深く考えずに、安易に保護者参観にあわせてしまったかな、とやや反省もした。

ラッキーディップが作文教育に問いかけるもの

そして、今回ラッキーディップを改めてやってみて、強く感じることがあった。それは、ラッキーディップは、通常の作文教育へのアンチテーゼでもある、ということだ。

通常の作文教育では、①自分の経験からオリジナルな考えを書くこと、②事前にしっかりプランニングをして書くこと、が求められる。これこそが、実は子どもたちの意識が「結果」「できばえ」「評価」に向き、頭で考えすぎ、優劣比較の結果としての「失敗」を恐れるようになる原因でもある。

そしてラッキーディップの特徴は、①自分のオリジナルではないこと(正確に言うと、非オリジナルからはじめてオリジナルにたどり着く)、②事前に計画せず、偶然性に任せること、にある。こうすることで、誰もが失敗をおそれずに言葉あそびを楽しむことができる。

ラッキーディップは、通常の作文教育を映し出す鏡である。オリジナル作品を、事前のしっかりしたプランニングにそって計画的に考えて書くのではなく、自分の外の素材を使って、偶発的に、手を動かして書くという、作文教育とは異なる「書くこと」のありようを提案している。大袈裟に言うと、それによって、通常の作文教育に、その妥当性を問いかけていると言っても良い。

ここには表現教育についてのスタンスの違いがある。そしてこのブログを継続的に読んでいる方はわかるかもしれないが、最近の僕は、たとえば事前にしっかりプランニングして論文を書くような授業をするよりも、ラッキーディップ的な書き方をどう作文教育に取り入れるのかに関心を移しつつある。

まだうまく授業化もできないし、言語化もできないけれど、プランニングをしっかりすることで「できばえ」に子どもの意識を向けてしまうのではなく、結果にこだわらず、ことばを操作して楽しく作文しているうちに、いつの間にかことばの力がついてしまう作文教育。それが僕に実現可能かどうかはさておき、ラッキーディップは、たしかにそういう方向性を示しているのだ。

というわけで、ラッキーディップを、ただの「ちょっと楽しいおまけ的授業」にしてしまうのはもったいない。ラッキーディップが持つ可能性に、ちゃんと自分が目を見開いていよう。そう思わされる、2022年度の最初の単元だった。

 

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