作文における「子どもの評価基準」と「大人の評価基準」の相克の価値。

子どもと一緒に文章を書くことを日常的にしている作文指導者であれば、子どもが感じる文章の「良さ」と、大人が感じる「良さ」のあいだにけっこうな隔たりがあることはすぐにわかるはずだ。僕も、句会に参加すれば自分の作品が一次予選で落ちることもしょっちゅうだし、恒例の「書き出し選手権」で首をひねるような書き出しが上位に来たりすることもよくある。もちろん、ここでの「子ども」「大人」は本当は千差万別なので非常にざっくりした言い方なのは大前提として、でも、こういう傾向があるのは間違いない。こういう場合に、作文指導者はどんなスタンスをとるのだろう。このエントリはそれについて書くが、実は、生成AIによるカンファランスについての下記エントリの補足でもある。

生成AIとの対話はカンファランスの代わりになるか?

2024.10.31
写真は、僕の家から車で10分くらいに登山口がある、ホームマウンテンの平尾山(平尾富士)の山頂からの景色。こういう山がすぐそばにある幸せ。

「子どもの評価基準」に対する2つのスタンス

一方のスタンスは、大人の考える評価基準、つまり、社会一般に良いとされる文章の書き方に、子どもの評価基準を「寄せていく」、平たく言えば、一般的な良い文章の書き方を教えるスタンスである。日本語としての文法的な正しさはもちろんのこと、文章の構成や表現の言い回しについても「普通はこう書く」を教えるべきだとする。こういう人にとって、子どもの文章は矯正の対象である。

これとは正反対のスタンスもある。それは「ありのまま」の子どもの文章を尊重して、そこにある子どもの「良さ」を一緒に楽しみ、大事にするスタンスだ。子どもには、子どもの評価基準がある。それを尊重する後者のスタンスの人からしたら、前者のスタンスは悪魔の所業のように映るだろう。

この時、作文指導者としてこのどちらかを選べたら楽なのだが、実際の指導現場はそんな単純ではない。子どもたちが持つ、自分とは異なる評価基準を尊重したい気持ちや、それを楽しむ気持ちはあっても、文章とは読んでくれる人がいてはじめて他者に開かれるものでもある。そのためには、社会一般の文章の規範、つまり「大人の評価基準」に寄せる必要もある。だから僕の場合も、子どもが何を楽しんでいるのかを読み取ろうとすると同時に、「ここは普通はこう書くよ」「一人の読み手として、僕はこう読んだよ。それは意図どおりだった?」を伝えることもためらわない。両極端のスタンスの間で常に揺れている。

体験したいのは、2つの評価基準の相克

そして、本当に子どもが体験するといいのも、社会的な大人の評価基準と、自分自身が考える良さの2つの間で揺れる体験なのだ。だって、大人の書き手である僕たちだって、その2つの間で揺れている。「普通はこう書く」を参照しながら、そことの距離をはかりつつ、「自分はこう書きたい」という思いで書く。書くことに限らず、表現とは常に社会的基準と自分の基準の間で引き裂かれ、折り合いをつける作業である。

だから、書くことの体験には、自分の考える「良さ」を持ち、それに自覚的になることと、自分の外にある社会的な規範にさらされることの、その両方があるといい。その両方の間の摩擦を感じながら、自分の評価基準を「育てて」いくのだ。その経験自体が、書くこと、表現することの貴重な体験である。

そして、先日書いた「生成AIによるカンファランス」への疑問に付け加えると、生成AIによる助言は、生身の人間の助言よりもはるかに「正解」と受け取られやすいだけに、そのような摩擦が生まれにくい。子どもたちはすぐに「正解=社会的規範」に取り込まれていきやすいのではないか。だとしたら、その弊害は、けっこう大きいのではないだろうか。

先日のエントリを読み直して、「生成AIによる助言を子どもが「正解」と受け取りやすいことの弊害について、もう少し詳しく書いたほうがいいなと思ったので、付言しておいた。再度断るけど、僕は現時点で子どもたちに実際には生成AIによるカンファランスをさせた経験がないので、頭の中だけでの話である。だから、実際に使っている現場を見てみたいし、自分でもやってみたいと思っている。

生成AIとの対話はカンファランスの代わりになるか?

2024.10.31

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