風越学園は先週の木曜に卒業式を終え、いまは年度のふりかえり、要録書きに追われる時期。そしてその隙間を縫って翌年度の準備もはじまっています。そんなあわただしい日の中で、今日は、同僚の授業研究のふりかえりを聞きながら、思ったことを。教師の熟達には「憧れ」と「深掘り」という、2つのマインドが関わっているのではないかという話です。
「憧れ」にもとづいた熟達
「あの先生のような授業がしたい」「こんなクラスをつくりたい」…こんな、外に自分の理想や正解をもとめて、それを目指して実践を豊かにしていく時期がありますよね。これが「憧れ」による熟達です。この熟達は、とりわけ若い時期に起きることが多そう。僕の場合はナンシー・アトウェルかな。憧れるあまりに本の翻訳までしちゃいました。アトウェルの見ている景色が見たい。僕にもそう考えていた時期があります。
こういう「憧れ」に基づいた実践は、すごい威力を発揮します。目標があるからわかりやすいし、ひとまずその人の真似をすれば授業が改善されることも多いので、手応えもある。辛辣に言えば、「憧れは理解からもっとも遠い感情」(by藍染惣右介)なので、ひいきの引き倒しのようなことも多いのだけど、でも、その欠点を補ってあまりある喚起力が「憧れ」にあるのは間違いありません。猛烈に伸びていきます。
しかし、一定時間を過ぎると、この「憧れ」の力は薄れてきます。というより、逆に実践者を苦しめることにもなるのです。というのも、憧れに喚起された実践では、自分の授業の良し悪しを判断する基準が、常に外部にあり、かつ、それを完全に満たすことがないから。憧れる理想像と自分の実践は永遠に一致することはなく、近づけば近づくほどにかえってその「差」が明らかになるでしょう。これが、大きな欠点です。自分の「伸び」が実感しにくくなったとき、「憧れ」のもたらす喜びは、理想像からの「落差」へと姿を変え、実践者を減点法でジャッジしはじめるのです。
「深掘り」というもう一つの熟達の道
「憧れ」モードが機能しなくなるとき、教師の熟達を支えるのが「深掘り」という別のモードです。これは、教師が自分と理想の差を実感したときに、それを無理に埋めようとするのではなく、「では自分とはどういう存在なんだろう」と自己を深掘りすることでたどりつく熟達の道。僕の場合だったら、自分はナンシー・アトウェルや甲斐利恵子とは違うというシンプルな事実をいくらかの諦念とともに受け入れ、「自分らしい」実践を目指す道です。
教師にとって、授業とは自己表現の場でもあります。そこには、良くも悪くも自分が色濃く反映されます。であれば、教師が自己を探究することは、実は授業づくりに直結する要素になる。自分は何が好きで、どう過ごすのが居心地が良くて、どんなことを願っているのか…外に憧れるのとは全く逆に、この時、実践者は自分の内側の奥深くに降りていくイメージです。でも、そうやって自分を深掘ることで、自分の判断基準をたしかなものにし、要は自分に嘘のない授業を目指していく。
2つのモードの往還
この、「憧れ」と「深掘り」という2つのモードの往還によって教師の熟達はなされるのではないか…というのが目下の自分の仮説です。僕の場合は、ここ数年で「憧れ」の時期から「深掘り」の時期へと移行してきました。あと数年たてばまた「憧れ」モードになるのかもしれない。「憧れ」だけでも、「深掘り」だけでも、実践はどこか行き詰まってしまうでしょう。この2つのモードを使いこなし、往還することが、熟達の鍵なのかもしれません。
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