学校現場と研究の上手なつきあいかた:「正解」モデルを超えて

エビデンス・ベースドについて書いた下記エントリを受けて、読んでくださった方から、次のような質問をいただいた。

覚え書き:「エビデンス・ベースド」な教育政策の意義と問題点

2016.03.02

教育実践の現場でエビデンスをうまくつかうには、ある系統的な知見の持っている文脈性を、教員・実践者が自分の文脈に当てはめてうまく把握・適用していくことが求められると思います。この資質を現場に求めるのは少し難しいと考えますか?

僕には難しい問いだけど、これを受けて、今回のエントリでは、どうすれば大学の研究を現場の教員が「自分の文脈に当てはめてうまく把握・適用」できるのか、学校で働く自分の立場から考えてみたい。

結論を先に言うと、これは現場教員の資質だけを問題にすることではなくて、教育現場が日々動いていく「エネルギー源」として研究が存在するような関係を、現場と研究の双方で作っていくのが大事なのだと思う。

まだまだ根強い「研究=正解」モデル

まず前提として、上記コメントの方がおっしゃるように、研究の文脈と、個々の教育現場の文脈は異なる。教育研究の中には一般化を志向する量的な研究も数多くあるが、そうであっても、言えるのは「こういう条件下ではこういう結果が出ました。この結果は教育現場にもこういう示唆を与えるかもしれません」までであり、個別の例外などいくらでもある。また、現場の文脈には、学校や生徒の文脈と同時に授業をする教員の特質や信念も存在する。仮に同じ授業法であったとしても、授業者が異なれば結果は異なってくる。だから、「正しい授業法」や「正解」と言ったものは存在しない。

ところが、僕たち現場の教員にとって、研究はしばしば「正解」を押しつけるものとして現れる。具体的な場を想定してみよう。書籍や雑誌記事を除けば、多くの教員にとって、大学の研究者と出会う場は公開授業・研究発表・研修ではないかと思う。そして、そこでは、次のような場面が展開されがちだ。

ある学校での公開研究会。大学の先生が「助言講師」としてやってくる。その授業について質疑応答が交わされた後で、最後の方にその先生の「ご講評」が始まる。ここはよかった、ここはこうすると良い…と、その先生が助言して、授業者が「ありがとうございました、今後に活かします」とお礼を言ってチャンチャン…

書いてて心が痛くなってきたのは、実は僕の勤務校の公開研究会も基本はこの形式だから…。で、このモデルの一番の悲劇は、僕らが研究者を勝手に「正解を言う人」のポジションに押し上げていることである。授業者や発表者が色々と頑張って、適当に褒められたり批判されたりしつつ、でも最後は結局研究者が「答え」を言う役回り。

断っておくとこの例はかなりステレオタイプな研究発表会の例。最近は新しい取り組みも色々と見聞きするし、「うちは違うぞー」と言いたげな知った顔もちらほら浮かぶのだけど、きっと皆さんはまだ少数派ですので許して…。

「研究=正解」モデルが生む悲劇

この「研究=正解」モデル、研究と教育現場の出会い方としては、かなり不幸な出会い方だと僕は思っている。第一に、このスタイルだと、授業をする現場教員は、研究者に何か言われると、自分のこれまでの教員としての経験や思いとは無関係に上から「正解」が降ってきたように感じてしまう。その研究者の発言に否定のニュアンスが強いと、「理屈なんて現場では役に立たない、だいたいあの教授は授業ができるのか」というお決まりの反発さえ生みかねない。

一方で、研究者の側にとってもこれは不幸だ。そもそも「これが正しい!現場はこれをやればOK!」と思っている研究者は、僕の知る限り(偏った少数のサンプルだけど)まああまりいない。実際に、研究の限界をよく知っているのも研究者本人だからである。なのに、みんなの前で「正解を言う役」を押し付けられるので、「もっともらしいこと」を言わなくてはいけない。実際、高名な先生から「ありがたいお話」を聞いていい気持ちになりたいという需要が一定数あれば、つい期待には応えたくなるだろうしね。

だから、僕が言いたいのは、まずはこの「研究=正解」モデルをやめようよ、ということになる。

教師がもっと勉強すべき? 違うと思う

この話は、研究者の側から言うと「研究結果を取り扱うリテラシーを現場教員が独学で身につけるべき」(教員がもっと教育研究について勉強しろ)という話になるのかもしれない。それも一理あることはまあ認める。僕自身、そのリテラシーの不足を自覚しているからこそ大学院に来ているわけだ。

しかし、だったら教職をもっと高給にして研究のリテラシーが高い人が教職につきたいようにするか、あるいはもっと仕事を減らして現場にいながら勉強する暇を与えるのが、本来の筋である(10年たったら現職派遣で大学院に行けるとか)。国際的に見ても長すぎる今の労働時間のままでは無理だし、都合のいい時だけ聖職扱いして給与以上の頑張りを教師に勝手に押しつけるべきではない。

やっぱりおかしい、日本の教員の長時間労働。

2015.11.13

研究と教育の「別の出会いの場」が必要

ということで、すべきなのは教員に「勉強しろ」というのではなくて、「研究=正解」とは別の演出の「出会い方」を、教育現場と研究の双方の合意で作っていくことだと思う。ただ、どういう場が効果的なのかとなると、なかなか難しい。

そもそも、今までだって研究と現場が出会う場を作ろうという努力はあったはず。例えば国語教育系の雑誌に研究者が寄稿しているのはその例だと思うのだけど、これはつい「研究=正解」モデルになりがちだし、雑誌自体がいまいち読まれていない気がする。下記エントリで紹介した「学校教師が集まって教育研究の論文を読むサークル」も面白いと思うけど、これが広まるかというと、厳しいかもしれないなあ。もう少し、現場の日々の授業と直接結びつく形で、研究者が研究結果を還元するチャンネルが必要だろう。

現場教師が教育研究を学ぶのは何のため?

2016.01.30

教育現場の「エネルギー源」としての研究

ここで少し僕の過去の経験を言うと、以前に作文教育に関心のある大学院生さんに継続的に授業に来ていただいたことがあった。僕からは授業の記録をお願いしいて、授業後には30分から1時間くらい、その授業の振り返りに付き合っていただいたのだ。その時に、授業についてコメントや質問をしてもらったり、その話題に関連する論文を紹介していただいたりして、大変役に立った記憶がある。

個人的には、ああいうのをもう少し掘り下げた「研究」との付き合い方がまた出来ればいいなと思う。教員にはあくまでその人の教育観や教師としてのストーリーがあるので、まずは時間をかけてそれを共有しながら、授業を何度か見てもらう。同様に、教員の側も、研究者のストーリーや関心分野、抱えている問いについて知っていく。そして、ある程度お互いのことを知ってから、研究者の方に授業を振り返る手助けをしてもらうのだ。「それは、理論で説明するとこんな説明の仕方が出来ますよ」「ちなみにこの研究ではこう言う結果が出ていましたよ。ただしこの研究の限界は…」「ここは先行研究でもよくわからないんですよね…」「もしよかったら次はこれを試してみませんか?」と、あくまで決定権は現場教員が持ちつつ、その振り返りの刺激や、別の可能性の模索につながるような形で授業に協力してもらう。一回は少しの時間で、期間は長く、じっくり。研究者は、そうした授業と教員の変化を質的量的に記述して、論文化していく。研究者の関心と授業者の関心が合えば一緒にアクション・リサーチをやってもいい。教師教育に関心のある研究者であれば、校内研修や学校内外の教員コミュニティのデザインに関わってもらうのもいい。

つまり、僕の思う研究と現場の理想的な関係は、研究者の側が「正解となるコンテンツや指針」を現場に与えるのではなくて、教育現場が動き、教員が日々学び続けることを支援するための「エネルギー源」として、研究が存在するというあり方である。

もちろん課題は多そうだけど…

上のあり方、ちょっと理想論を書きすぎという自覚はある。課題も多そう。現場の教員でも、授業を見られること自体に抵抗を感じる人はいるだろうし、教育研究者の側も、こういう形での現場への入り方に、どれくらいの人が興味を持ってくれるのだろう。大雑把に言うと教育研究者には「教育学」ベースの人(教育学が専門の人)と教科ベースの人(教科内容が専門の人。例えば国語なら、国文学や国語学出身の研究者)がいるけど、後者の研究者ほどコンテンツ(教材)重視で、こういう「現場に入ってフィードバックする」発想が好きじゃなさそうな印象がある。また、教育学ベースの人にしたって、そんな気長にじっくり一つの現場に付き合ってられないよ、というのもありそうだ。(以上全て偏見かもしれません)

しかし、福井県など幾つかの教職大学院で、現職院生さんが地域の学校に毎週勤務して授業をしたり、大学の研究者が頻繁にやってきたり、研修に参加したり….というような事例も聞いている。研究者が全ての学校を回るのは無理にしても、その地域の基幹となる中学や高校に日常的に研究者がやってくるようになれば、そこの先生が別の学校に異動して…という好循環が生まれるのかも。この辺については、もう少し自分でも情報収集したい。うまくいっている事例を参考にしながら、僕個人としても、うちの職場としても、「現場」と「研究」のいい関係を作っていけたらなあと思う。

作文教育に関心のある方、お待ちしてます!


ちなみに最後に宣伝をすると、僕のブログの目的の一つは「作文教育に関心を持つ研究者に出会うこと」である。僕のブログを読んで関心持ってくださった方、自分と教育観が近そうだなと思ってくださった方、ご連絡ください(笑)

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10 件のコメント

  • 「正解は一つ」という教育観が根底にあるんでしょうね。正解はいくつもある、さらに立場や視点によっても変わるという「観」が必要かなと思います。

    • そうそう、「観」の問題なんですよね。書くときにはその言葉が思いつきませんでしたが、まずはそこを共有するところからだと思います。ありがとうございました。

      • コメントありがとうございます。私は、企業でテスト、教材の開発を担当していますが、最近、先生のブログを発見し、考えさせていただくことが多く、参考にさせていただいています。意見交換ができると幸いです。

        • ありがとうございます。どういう形での意見交換をお望みでしょう? コメント欄でも、メールでも、帰国後の対面でも、こちらはどれでも構いません!

          • ありがとうございます。現在、私の問題意識は、「論理的なコミュニケーション」としての議論、論文の書き方が日本の教育では弱いのではないか、という点です。それを教材におとせないかと考えています。先生の関心のある作文教育とかさなる部分ありますでしょうか?ぜひ、お会いしたいと思いますが、夏までご帰国されないと思いますので、ぜひ、メールで意見交換させていただければ幸いです。

  • 公立中学校理科教員です。僕の考え・立ち位置とも近く、今までもやもやしていたものが整理されて文章化されていました。

    • ありがとうございます!自分ではちょっとまとまりが悪い(長すぎ)と思っていたので、そうおっしゃっていただけると嬉しいです!

  • はじめまして。あすこまさんのブログ、拝見いたしました。
    私も受験小論文という世界で仕事をしておりますが、より洗練した指導方法はないのか日々考える毎日です。
    今回は最後の宣伝を拝見したので、早速コメントを残します。私は某大学と某企業の研究者の先生とともに、色々と議論をしながら、指導に反映させています。
    もしよろしければ、あすこま先生ともお話ができればと思っています。(一度お話したかったので、ここで勇気をもってお声掛けします!)
    これからも応援しています。よろしくお願いいたします!

    • コメントとお声がけありがとうございます! もともとは私も院生時代に某予備校で小論文模試や講座の添削バイトをしていたのが、作文教育に関心を持つ直接のきっかけでした。是非お会いしましょう。こちらからメールいたしますね。