教育現場の「わかる」と「わからない」に橋をかける:教育研究のもう一つの役割

昨日、「繊細な感覚を持たない僕みたいな人のために、「安心・安全な場」を記述する研究があればいいのに」ということを書いた。今日はその後日談的な短いエントリ。

あるのかな?「安心・安全な場」を記述する研究

2016.05.16

教育研究のもう一つの役割

昨日のエントリを書いてみて気づいたのは、「研究」の中には「未知のものを発見する」だけでなく、同時に「安心・安全な場」のように「わかっている人には当たり前にわかっていること」ことを、「その感覚を共有できない人」にも通じる言葉に変換する役割もあるんだなということ。特に、教育実践に活かすことを目的にする教育研究だとその役割は大きいのかもしれない。

いくつか教育研究の論文を読んでいると、時々「そりゃあそうだよねえ、うん、知ってる。それで?」な論文に出会うことがある。個人的にはそういう論文は「当たり前で面白くない」と思いがちだったけど、そういう論文も、きっと論文という言語に変換されたことで初めて了解できる読者に出会うために書かれたものなのだろう。それがたまたま僕ではなかっただけで。さらに言えば「そんなの当たり前じゃん、それで?」と僕が言語で再認識できること自体も、その論文を読んだおかげなのだろう。読まなかったら、当たり前すぎて意識にも上らなかったかもしれない。

言葉で、「わかる」と「わからない」の間に橋をかける

「現場の雰囲気」や「わかっている人にはわかっていること」を、「その場にいない人」や「その「わかる」感覚を共有できない人」にも了解可能なように、言葉にして表現しなおす。もちろん言葉で書かれる以上、書かれたものは「もとの出来事(ここは議論になりそうだけど、一応もとの出来事というものがあるとしよう)」とは違う「何か」になるのだけど、その「何か」をきっかけに新しいコミュニケーションが始まる。さらに言うと、「わかる」と思っていた人に対しても、別の言葉で「わかり直して」もらったり、いったん「わからなく」させたりする機能もあるかかもしれない。

こういう風に、現場で起きている出来事の「わかる」と「わからない」の間に橋をかけて、コミュニケーションのきっかけを作り、人がそこを行ったり来たりできるようにする。それも、教育研究の大切な役割の一つなんだ。いったん言葉にするとこれ自体もあたりまえのことのような気もするけど、こうやって昨日のエントリを書いて、読み直して、初めて納得できたこと。たぶん自分にはこのプロセスが必要だったのだ、と思うことにしよう。

この記事のシェアはこちらからどうぞ!