もしあなたが中高の国語の先生で、書く力を伸ばすことを目的に、トピックを指定して15分や20分などの時間制限を決めて生徒に文章を書かせているなら、そして生徒の助けにと書き方を細かく指定したり穴埋め形式で書けるようにしていたりしたら、それはやめたほうが良いかもしれない。作文教育の先行研究は、そういうやり方が逆に生徒のやる気を失わせる可能性を示唆している。今日は作文教育とモチベーションの話を書いてみたい。
目次
中高生は基本的に書くことが好きではない
まず大切なこと。中高生は基本的に文章を書くことが好きではない。1980年代のアメリカやイギリスで行われた複数の大規模な調査によると、中高生くらいの年代では、書くことに対してネガティブな態度を取っている生徒が一貫して多い。(Applebee et al., 1986; NAEP, 1984; White, 1986)。11歳よりも15歳くらいの方がネガティブな生徒が多く、そして、一旦ネガティブな態度をもってしまうと、それが持続することも指摘されている(White, 1986)。こうした傾向は、質問紙調査の他に質的研究でも裏づけられている(Cleary, 1991, Lavvelle et al., 2002)。
2000年代に入っても状況は変わらず、イギリスでは7-9年生(Key Stage3)の生徒の65%が書くことが好きではなく、57%の生徒が作文の授業が退屈、45%が自分の文章力に悲観的だった(NLT, 2009)。NLT(National Literacy Trust)の最新の報告によると、2012年には作文が「とても好き」「まあ好き」な小中高の児童・生徒が44%だったのが2014年では49.3%に上昇して、ようやく半々である(NLT, 2015)。ただ、「読むこと」に比べて「書くこと」が好きではない傾向は一貫して変わっていない。
以上の結果を見るに、授業者としては「子どもたちは書くことが好きではないのがデフォルト」と思っておくのがよさそうだ。(国ごとの違いがあるかどうかは、日本での研究を知らないので、いったん留保しよう)
特に10代男子は書くことが嫌い
また、性別でみると、男子の作文嫌いの傾向がはっきりしている。イギリスでは長らく「男子の作文嫌い」が指摘され続けていて、この問題は20年ほど解決されていない (OfSTED, 1993; 2005; 2012)。NLTの調査でも、作文を書くのが「好き」「まあ好き」な女子57.4%に対して、男子は40.4%である(NLT, 2015)。ただでさえ10代の生徒は作文が好きではない子が多いので、報告書にも10代男子は「二重のディスアドバンテージ」と書かれているほどだ。これを日本に当てはめると、僕の勤務校は中高一貫男子校なので、作文が嫌いな子たちぞろいということなんだなあ…。
また、規模の小さな質的研究では、男子生徒はしばしば「書く前のプランニング」を時間の無駄として嫌がる傾向があること(Maynard, 2002)や、自分の文章を推敲したがらない傾向があること(Barrs & Pigen, 2002)が報告されている。さらに男子生徒は教師からトピックや構成を押しつけられることも嫌がるので、それが教師との間に軋轢を生みやすいという報告もある(Jones & Myhill, 2007)。総じて、女子の方が男子よりも「学校の要求に応えて書く」ことにうまく対処しているようだ(Cleary, 1996)。
嫌いなのは「学校で」書くことなのかもしれない
男女の違いはさておき、多くの中高生は生徒は書くことを楽しんでおらず、単に学校の要求を満たすために書いている(Cleary, 1996)。文章を書くことが実生活に関わるという意識も、自分が「書き手」であるという意識もないまま、「作文」というゲームを、学校の中でだけしているのだ(Cremin & Myhill, 2012)。ある生徒はインタビューにこう答えている「書くことについて考えなんてないよ、先生が書けと言ったから書いたのさ」(Cremin, 2003)。
なんでそうなのだろう? ここで注意すべきなのは、生徒は書くことそのものが嫌なのか、それとも「学校で」書くことが嫌いなのか、ということだ。もちろん前者の生徒も多くいるだろうけど、実は後者の生徒も少なくないのでは、ということが予想される。というのも、別の調査では、ブログやSNSやテキストメッセージでの書き込みを「書くこと」と見直していない生徒が60%もいるという結果もあって(Lenhart et al., 2008)、生徒が「書くこと(writing)」が好きかどうか聞かれた時に、「書くこと」を「学校での作文(school writing)」と狭くイメージして捉えている可能性があるからだ。
また、生徒の「書くこと」への態度について、「家や友達に向けて書くことは学校で書くよりも好き」だし、「自分でトピックを決められる時には好き」とする報告も多くある(Oliver, 2013)。そのことを考えると、書くこと全般が嫌いというよりも、学校での作文が嫌い、ということもありうる。
では、なんで「学校の作文」は嫌がられるのだろう?
では、なぜ学校での作文は嫌がられるのだろうか。Cremin & Myhill(2012)は作文のモチベーションに関する先行研究を整理して、「学校での作文」が生徒のモチベーションを下げる要因として「題材や内容、タイトルを指定されること」「特に、他の科目と関連づけて書かせられること」「時間制限を設けられること」「書き方を制限されること」などを指摘している (Cremin & Myhill, 2012)。そして、これらは生徒の書き手としての自律性を損ない、生徒を作文から遠ざけ、書くことの責任者を「生徒」ではなく「先生」にしてしまう可能性があると分析している。
自律性と選択を保証することが大切
そのCremin & Myhill(2012)が「キーファクター」としてあげているのは「自律性と選択(autonomy and choice)」である(関連記事参照)。
書き手としてのオーナーシップを実感できることで、書こうという意欲が高まる。特に男子は女子よりも「自分のニーズに基づいて書こうとする」(Morris, 2007)傾向が強いことも指摘されているので、自律性と選択を保証することが、作文嫌いの男子にとっては一層効果的な可能性は高い。
そして、モチベーションを高く保つことは、良い文章を書けるようになることとも関連しそうである。それを支える研究としては、モチベーションによって作文のパフォーマンスが予測できるという研究(Pajares, 2003; Graham, Berninger & Fan, 2007)や、書き手のモチベーションやトピックへの興味が推敲のレベルに影響するという研究(Beach, 1976, 1979; Faigley, Daly & Witte, 1981)がある。
「制約」を減らして、オーナーシップを持たせる
以上を踏まえると、もしも生徒の書く力を伸ばしたかったら、生徒への「制約」をできるだけ減らして、彼らに決めてもらう機会を増やすのが良さそうだ。簡単に言えば、ああしろこうしろとは言わない、ということである。そうすれば生徒は自分の文章へのオーナーシップを持った「書き手」になっていく。研究は、その可能性を示唆している。ライティング・ワークショップが作文教育法として優れているのも、この「自律性と選択」を最大限保証することを通じて、彼らが自立した書き手になることを支援している点にあるだろう。
もっとも、すべての作文の授業がライティング・ワークショップのように生徒の「自律性と選択」を尊重するのは現実的な話ではない。先生によっては、「まずは教師が型をしっかりと教えるべき」「題材を指定しないと教師が責任を持って見られない」という考え方の人もいるだろうし、「そうは言ってもうちの学校では行事作文や読書感想文を書かせないわけにいかない」という事情の人もいるだろう。
ただ、そういう先生たちでも、「どこかに生徒の選択の余地を設ける」「制約をいつもより一つだけでも減らしてみる」だけで、生徒に自分の書く文章へのオーナーシップをもたせて、やる気を出させ、良い文章を書こうとする意欲に繋がるかもしれない。
改めて言うまでもなく、生徒が「書くことを楽しむ」ことは、作文教育において最も重要な要素の一つである。何しろ、書き続けないと上達しないし、モチベーションがないと書き続けられないのだから。できるだけ生徒が書くことに意欲を持って取り組める環境を作り、書き手としての成長を促していきたい。
書くことだけでなく、「やる気をださせる」「モチベーションを維持する」、そして主体性という点で、「楽しむ」というのは大切だと思います。これは、教科の学習もそうだろうと思いますし、中高生や大学生だけでなく、仕事も同じかなあ。社会人も。大人になればなるほど「やらなくてはいけない」ことが増え、強制力で動いていないか、ということです。
また、「題材や内容、タイトルを指定されること」という点で、型を教えるにはよいと思いますが、解決すべきテーマがはっきりしている問題を解決するのは、そう難しくもなく、状況から自身のミッション達成にむけ、テーマを設定すること、アジェンダセッティングする力が仕事をしていて不足しているように思います。与えられたテーマより自分で見出したテーマに取り組む方が楽しいですし。
おっしゃる通りですよね。全面的に賛同します。そして、書くためには何らかの「型」(これまでの人類の知識の積み重ね)が必要なことも事実で、生徒に自由を与えて意欲を保ちつつ自分で考えてもらうことと、そのような「型」を伝授することも間で、教師は行ったり来たり…なのだと思います。