堀静香『がっこうはじごく』は、歌人・エッセイストであり、かつ中高で国語科の非常勤講師として働く著者・堀静香さんの、学校教育をめぐるエッセイ集だ。タイトルや帯だけ見ると、学校のさまざまな理不尽なルールを糾弾する本のようにも読めるが、決してそんなことはない。その中にいる堀さん自身への懐疑や揺れがあって、タイトルと表紙のポップなイラスト(表紙の右側と裏表紙の女性は、堀さんによく似ている)のギャップが、そのアンバランスさを象徴しているようにも読める一冊だ。
なお、僕にとって著者の堀静香さんは、かつて東京時代に一緒の国語の勉強会に所属する勉強仲間だった。『君の物語が君らしく』にも書いたのだけど、僕に「穴埋め短歌」を教えてくれたのは堀さんである(過去エントリを見直したら、ちょうど10年前のことなんですねえ)。だから、本書の感想にも、そのような文脈がまとわりついていることを断っておく。
目次
「がっこうはじごく」である。
「がっこうはじごく」である。まあ、それはそうだろう。トイレの許可を得ないといけなかったり、制服を着ないといけないことを取り出してそう言うだけなら、率直に言ってそんなに独創的でも、面白くもない発見だ。学校の、少なくとも成立当時の本質的役割は国民国家の形成装置なのであって、「じごく」としての側面は、そこから不可避的に生じる。それはむしろ、教師もみんな知っていることと言ってもいい。
だから学校には時折、「こんな校則意味ないよねって俺は思っているんだけど…」とあえて子どもの前で言ってみせたり、生徒指導をちゃんとやらずに「見逃す」ことによって、生徒の人気を一定程度得る教員が出てくる。本人は、自分は子どもの味方と思っているらしいが、でも実際に校則の変更を求めて動くことはまれだ。そんな教員を苦々しく見る同僚もいるし、制度にもたれた彼のフリーライダー的な「ずるさ」に気づいている子どもだっている。彼は、生徒に迎合してガス抜きする役割を果たすことによって、結果として学校制度の存続に加担しつつ、その中で小さな自分のオアシスを得ているにすぎない。あえて言えば、学校とはそんな強固な「じごく」なのだ。
本書の魅力は、中途半端さや揺れ、矛盾。
堀さんは、学校は「じごく」だと、おそらく心底思っているのだろう。そして、非常勤講師としてその場にかかわる自分の授業が、生徒たちにとってのアジール(避難所、休息所)であるようにと願ってもいるだろう。でも、学校への違和感を抱えつつも、堀さんはフリーライダーにはならず、自分のふるまいにも懐疑的なまなざしを向ける。それがはっきり現れるのは、ある生徒のカンニング疑惑をめぐっての章「だれとしてそこにいるのか」だ。
生徒の前で、「先生はね」と自称する教員のことを、わたしはずっとどこかで馬鹿にしていた。自分で「先生」なんて言うなよ、と。けれど学校という場で完全に「先生を演じ切る」ほうがよっぽど健全なのではないか、と気づいてしまう。
教員的ふるまいをおそれ、同時にはっきりと嫌いながら、気づかぬうちにそこにどっぷり浸かっていた。そういう無自覚な権威を、わたしはこんなにもわきまえ、それどころか振りかざしていたのだった。
堀さんは、こんなふうに、自分もまたうっすらした権力性を帯びていることを自覚し、その中途半端さに「不健全さ」を感じてもいる。そして、こうやって「先生を演じきって」いる同僚たちにもまた、「ほんとうには、専任の先生たちだって「学校」にうんざりしているのかもしれない」(p36)という眼差しを向ける。それから、非常勤である自分の「よそ者」的中途半端さをかえりみて、さびしく思ったりする(「よそ者のまま」)。生徒に対しても同じで、「あなたの声を聞かせて」と願いはするが、卒業したらその名前をおぼえているわけでもなく、どこかドライな感じもする(ここは僕と少し似ている)。堀さんはそういう立ち位置の人だ。
本書の魅力は、「学校は地獄だ」といまさらな糾弾をするところではなく、心底学校がきらいなはずなのに、そこから抜け出せない、こういう「中途半端さ」や「揺れ」「矛盾」がここかしこにあるところ。まさに、人間が生きてるって感じがする。
ヨシザワ先生について
それに関連してちょっと興味深かったのが、堀さんの「恩師」的位置づけとして、「ふたりの幽霊」の章とあとがきに登場する小学校4・5年時の担任・ヨシザワ先生のこと。堀さんの小学生時代とは時代が違うとはいえ、このヨシザワ先生、僕の目にはきわめて「学校の先生らしい先生」、なんなら現代における優れた小学校教員の一つの典型例に見える。
本書で堀さんが想定する「学校らしさ」とは、彼女自身の中学生時代のそれなのだろうが、ヨシザワ先生の学級は現代の理想的に語られる学校らしさの典型に見えるし、ヨシザワ先生も、その中で「良き権力者」として、学級で自分の権力を行使しているに違いない。だから、「がっこうはじごく」と言いながら、一方ではこんなきわめて学校っぽい空間やそれを作り出している先生が肯定的に語られることが、ちょっと興味深くも感じられた。
堀さんの「今、ここで」実践
そういう矛盾や分裂も含めて、本書には生身の(教師としての)堀静香さんが詰まっている。僕はかつての勉強会を通して、一部ではあるが堀さんを存じ上げてはいるので、本書を読んで「堀さんらしいな」と思う面もあれば、意外な面もある。でもみんな堀さんだ。なつかしさもある。かつて勉強会で共有された実践や本の題名が、本書にもいくつか出てきた。
その中でも一番感銘を受けたのが、堀さんが、かつて東京にいた頃に実践されていた妹尾和弘氏の実践「今、ここで」を、今も続けていらっしゃることだった。
あれからもう何年もたつけど、継続されているんですね、という率直な驚きと喜び。子どもたちに「ほんとう」を書いてほしいと願う、そこに堀さんの実践者としての「ほんとう」があるのだろう。実はこの夏、僕もひさしぶりに「今、ここで」をやろうかなと思っていることもあって、その偶然が嬉しかった。いつかご本人にお会いする機会があったら、お話をうかがってみたいところだ。
参考)堀静香さん「せいいっぱいの悪口」インタビュー ふつうの生活をしているわたしが書く意味と、よく分からない自信
https://book.asahi.com/article/14800240