リーディング・ワークショップにおける「学びの個別化」とは何を意味するのか?

話題の書『流行に踊る日本の教育』を読んだ。事前情報では僕の知人に絶賛する人も酷評する人もいたのだけど、実際に読んでみると、予想外に穏当な本だった。書き手のうち幾人かを知っていて、その人たちがみんな「一筋縄ではいかない人たち」という印象なので、その先入観で余計にそう思ったのかもしれない。全体としては、「未来の教室」に代表される経産省的なビジョンに対して、学術的知見や教育史の観点から「ちょっと落ち着いて考えようよ」と再考を求める本だ。

本書のトピックは広範囲に渡っているので、このエントリでは、第2章「個別化・個性化された学び」に触れつつ、自分のリーディング・ワークショップの授業における「個別化」の意味について振り返ってみたい。

目次

2つの「学びの個別化」

本書で熊井氏が的確にまとめているように、教育における「学びの個別化」には2つの意味合いがある。一つには、規定の教育内容を個々の生徒に合わせてより効率的に習得していくという意味での個別化。この意味での個別化で期待されているのがEdtechで、生徒のプロフィールをデータベース化して、AIが個別最適化したマッチングに基づいて次の作業を指示することで、生徒の学力を効率的に上げようとするものだ。もう一つの個別化が、イエナプラン的な、一人一人の子供が自らにあった(と本人が考える)やり方で学習を進める、学習者の主体性尊重という意味での個別化である。

この2つの違いについては、僕も似たようなことをブログで書いたことがある。

手段最適化と目標の設定。2種類の「学びの個別化」について。

2017.04.22

熊井氏は、「個別化」の内実がこのように多様であること、そしてどちらにも限界があることを指摘する。また、そもそも日本の従来の授業が「画一・一斉」という形で(それこそ画一的に)形容されることに警鐘を鳴らす。一斉授業の枠組みの中で個別の生徒に対応してきた先達は数多くいるはずで(国語だと僕の頭にぱっと浮かぶのは甲斐利恵子先生だけど)、それは決して「個別化」の対極にある「一斉授業」ではないのである。

リーディング・ワークショップでの教師の役割

このエントリの僕の関心は、こんな熊井氏の指摘を念頭に置いて、自分のリーディング・ワークショップの授業を見直したらどうなるだろう、という点にある。リーディング・ワークショップは、子どもたちが自分のレベルにあった本を読むことを柱にする点で、まぎれもない「国語の学習の個別化」である。それは、どういう意味での個別化なのか。効率的習得の意味か、主体性尊重の意味か。

この意味合いは、実際のところ、教師の介入の度合いによっても異なる。効率的習得と主体的尊重は必ずしも対立概念ではないので、それぞれの軸を持った4つの象限図を作ると、こんな感じ。

図の①は、「生徒が自分で本を選んでいるが、自分にあった本を選べていない」状態。読書で効果的に語彙を習得したり、速く正確に読めるようになったりするには「自分にあった語彙レベルの本を、幅広く」読む必要があるし、アウトプットの必要もあるが、自分一人ではなかなかそれは難しい。自分にとって易しすぎる本や面白くない本を表紙だけで選ぶ生徒も少なくないし、逆に、難しい本なのに読むのをやめることもできない生徒も一定数いるからだ。この状態を、子どもが選ぶことが大事と容認し続けるのは、自己選択や自己責任の名の下での責任放棄である。そこで④のように、「生徒が本を選ばずに、教師がその子にあった本を選んで渡す」モデルが生まれる。これだと、読む力は比較的効率的に伸びるが、それだけだといつまでたっても自分で本を選べないことになる。

もちろん、最終的に目指したいのは②の領域だ。つまり、生徒が、自分にとってぴったりの本を自分で選べている状態。語彙レベルとしても、嗜好としても。とすると、「教師が本を与えるがそれが生徒のレベルにあっていない」③は論外として、リーディング・ワークショップで教師がやるべきなのは、最終的には②の状態へと生徒を導く、ということになりそう。

自分は…①と④を行ったり来たり

けっこう④の状態が多い

風越の同僚はよく知っているけど、僕は生徒にどんどん本を紹介するタイプだ。今週も「恋愛ものが読みたい」生徒に、レベルも内容も異なる4冊の本を用意して中から一つ選んでもらったし、タイタニックに興味を持った子にも、その興味に添いつつ読書レベルをあげるための一冊を手渡した。大体において、生徒の今の興味を聞いては、それにあった本を選んで手渡そうとするし、本人の読書レベルから見て易しい本の読書が続いている子には、「次は僕のお勧めを読もう」と声がけする。読書ノートを出さない子にもしつこく督促して、アウトプットを促す。全体として、僕は④の状態を作ることをためらわない。そうすることで、その子の読書レベルがぐっと上がる瞬間が生まれる場面に、何度も立ちあっているからだ。もちろんうまくいかないこともあるけど、チャンスがあればその子の「レベルアップのきっかけになる本」を作ろうとする

この介入の度合いは筑駒時代よりも明らかに高まっている。そうなった理由の一つは、勝田先生が下記エントリで指摘したような、読書を通じてきちんと読む力を育てるんだという意識の高まりだろう。

勝田先生が僕の国語の授業を見に来てくれました

2021.01.24

そして、もう一つの理由は、「自分が出会ってきた素晴らしい世界を若い世界の人たちに伝えたい」という教育欲(伝達欲)だと思う。本を通じて広がる豊かな世界がたくさんある。結局のところ、一介の国語教師に過ぎない僕が自分の実感を持って生徒に伝えられるのはそのことだけだし、自分の教育欲には素直になりたい。

きっかけをつかんだ生徒は①に

そんな風に④が多い僕の授業だけど、一度きっかけをつかんだ生徒に対しては、あまり効率性は考えずに、自分で自由に本を選んでもらうことも多い。これは①の状態。もちろんカンファランスはするけど、それも一人の読者と読者として話しているという感じ。その子に教えてもらった本をこっちが読むこともある。しばらく何冊かその子の選書に任せておいて、友達のお勧めなどを使いながら上手に世界を広げていければそのままだし、ずっと同じ感じが続いていれば、やがて、「そろそろ別のジャンルの本にも出会った方がいいな」「そろそろもう一段ステップアップできるかな」と思う時がくる。その時にチャンスを作って「こっちのお勧めを読んでみない?」と①に戻る感じ。

そんな風に、今の僕は生徒が①と④を行ったり来たりするように働きかけている。完全な自由でもないし、完全な強制でもない。ただ、全体として枠ははまっている。その先に、②の状態に行けるのかな、そう願っているけどどうだろう。ただ、全体としては、春先に授業を始めたばかりの頃の読書リストと比べると、全体としては読書家としての成長ぶりがうかがえて、嬉しくなることも多い。その子がぐっと伸びる瞬間に立ち会えたなと思うときは、やはり、こっちがちゃんとその子の読書家としての傾向がわかっていて、しかも、その子にあった本を知っているとき。リーディング・ワークショップの教師は、やっぱり子どもが読む本を本をたくさん読んでいないとなあ…と改めて思っている。

とはいえ、そういう自己信念の強化も良くないな、とも思う。過去エントリで紹介したように、ヤングアダルトものはほとんど読まずにリーディング・ワークショップを実践する先生もいらっしゃる。また、実は先日、僕のリーディング・ワークショップの授業を見学された方に「ずいぶんハードルが高くて自分にはできないと思いました」という感想を抱かせてしまって、「やってみたい!」と思わせられない自分の不徳を感じたところでもある…確かに、僕のやり方でやろうとすると、リーディング・ワークショップは誰にでもできる実践ではなくなってしまう。やることはシンプルなんだけどなー…。

リーディング・ワークショップの楽しさと大変さを共有した授業見学

2020.11.28

リーディング・ワークショップの教師の役割はAIで代替できるか?

さて、ここまで書いた上で、リーディング・ワークショップにおける自分の仕事が果たしてAIのリコメンド機能で代替できるかを考えてみる。結論としては代替はされないでしょうね。AIには教育欲がないから「あなたに似たユーザーはこんな本を読んでいます」は言えても、「他ならぬあなたに、僕の好きなこの本を読んで欲しいんだよね、きっと面白いと思うけど」は言えない。これは、人間の教師の大きな強みだと思う。また、AIには単純に効率性の軸だけで最適の本を選ぶことはできても、①の領域と④の領域を行ったり来たりするタイミングを考えて働きかけるのも難しいはずだ(まあ、人間の僕も難しいんですが….笑)。将来はともかく、少なくともamazonのレコメンド機能程度では、リーディング・ワークショップにおける教師の役割にとってかわることはできない。

風越に来てその自覚を強めたのだけど、僕はずいぶんと保守的な教師なのだと思う。子どもに自分で本を選べる自立した読書家になってほしいと願うのと同時に、自分がこれまでに出会った素晴らしい本を次世代の人たちに伝える媒介としての喜びを感じてもいる。その両方のバランスをとりつつ、子どもたちの読む力を伸ばしたい。「学びの個別化」の文脈によくある「Edtechを活用すればコンテンツはオールOK、教師はプロセスを管理して励ます役に」みたいな主張を僕が軽んじがちなのは、人間だけが持つ教育欲に素直で、その可能性を信じているからでもある。

 

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