生徒に聞いてみた、リーディング・ワークショップが失敗する理由とは?

ゴールデンウィーク明けから、高校2年生でリーディング・ワークショップを行う。今回は生徒にとって抵抗感のある「評論」を対象ジャンルとする予定だ(とはいえ、最終的に何を読むかは当人の選択で、強制はしない)。

その準備をしながら見直しているのが、昨年度、中3で週1回、「新書」に限定してリーディング・ワークショップをやった時の「失敗」である。同じく昨年、高校でリーディング・ワークショップをやった時と比べて、生徒の熱量がとても低かった。特にあるクラスでは、授業中にふざけておしゃべりする生徒も出てきて、全体の空気があまりに集中していなかったのだ。

それで、たまらずいったん授業をストップして全員を集めて、何が問題なのかを意見を言ってもらったことがある。その時に「これなら一斉授業形式の方がよく学べるし、自分にとって役に立つと思う人、手をあげて」と聞いたら10人近くが手を挙げた。遠慮もあるだろうから、実際にはもっとずっと多い数の生徒が、授業に不満を持っていたのだと思う。

今日のエントリは、その時の反省メモや授業後に生徒が書いてくれたコメントを見直しながら、生徒の考える「リーディング・ワークショップが失敗する理由」をまとめてみたい。いやー、意見を言って(&書いて)くれた生徒の皆さん、本当にありがとう。

目次

「自由なのが困る」

生徒の意見の中でまず目についたのが「自由なのがよくない」という意見だ。

  • スタイルは自由でいいが、まわりに仲間がいすぎるとつらい。
  • 自分は本を読むのが好きなので授業では本に集中することができるが、そうでない人はどうしてもしゃべってしまうのかなと思う。そういう意味では、机に座ると指定しないとしゃべってしまう可能性が高いのかなと思っています。
  • 本を読むことが目的だろうけど、アバウトすぎる。ある程度の選択肢を与えてその中から選んだほうが良い。自由と制限の線引きをどこでするかという問題。
  • うるさいメンバーは限られているので、なんらかの仕組みを設けるべき。
  • この「自由すぎる問題」については、一方で「この自由さがいい」という生徒も結構な数いるので、話は単純ではない。下記のような意見も相当ある。

    自由形態であるべき。集中する環境は違うし、それで与えられた自由を無駄にする人のせいで他の人の自由がうばわれるのはなんかなあ、と。

    僕としては、これは「自由」であること自体が問題なのではなく、自由な環境で試行錯誤するための指針となるサポートが受けられていない(適切なミニレッスンやカンファランスを受けられていない)ことが問題なんだろうと思っている。たぶん、鍵になるのは選書の手伝いを主とするカンファランスやブックトークなどの、本の紹介の機会を設けることだ。選書段階で読みたい本に出会えないと遊んでしまう。どうやって魅力的な本に出会う環境を整えるかが、やはりこの授業のキモなのだろう。

    論説文がイヤ

    上で書いたように、「自由すぎて遊んでしまう問題」は、おそらく「読みたい本が見つからない問題」と関連する。特に今回は、「新書」と読書範囲を限定したことの影響をひしひしと感じた。

  • ただでさえあまり楽しめない論説文を、何も考えずぼーっと読むだけでは意味がない。
  • 論説文を読むことが苦痛です。物語ならいけるかもしれないです。
  • 自分が興味を持てる本を見つけられるようがんばります
  • というふうに、このジャンルに抵抗感を持つ生徒は少なくないのだ。とはいえ、授業者としては、語彙の強化やジャンルへの慣れという観点から言っても、いつまでも新書を読まないでいいというわけにもいかない。小説だけを大量に読んでも、語彙も展開の型も異なる論説文の読みには活かされにくいからである。

    しかし、ただでさえ自分の好きな本に出会えないことに加えて、上の生徒が「何も考えずぼーっと読む」と書いているように、いまいち目的意識を持てていなかったりするのであれば、それは読むのが苦痛だろう。選書のサポートとは別に、目的意識を育てるために、何かアウトプットの課題を設けた方が良い場合もあるのかもしれない。実際に、次のようなアウトプットや交流の機会を提案してくれた生徒たちがいた。

  • 固定ペアでお互いの進捗を把握しながら読む。
  • 同じようなテーマで読んでいる人の情報を共有する。
  • 課題がないとただ読むだけになってしまう。課題をつけて。
  • 週1回なのが問題

    もう一つ厄介だったのが、この時には週1回しか授業がなかったということだ。

    • 週1だと、前に読んだ本を忘れる
    • 一度読んだ本を再度一週間読みたいかというとそうではない。それがずっと続き、冒頭だけを読むということが続いている。
    • 週一ということもあって仕方ないと思うんですけど、前回読んでた本の内容を大体忘れてしまうので、なんかその場しのぎみたいな感じで本読んでジャーナルを書いている。
    • 忙しい時は次の授業まで全くよまずにまた前のところから、だと…。

    週1回だと、生徒からすると読書に継続性がなくなり、読書体験が細切れになる。また、こちらとしても、全員と1回カンファランスするだけで1ヶ月かかってしまうので、必要な生徒に必要なサポートをすることができない。だから生徒は読みたい本に出会うことができず、結果、手持ち無沙汰になり遊んでしまう…ということなのだろう。

    問題の根っこは…

    こうしてまとめると、問題は密接に関連している。「新書」という馴染みのないジャンルなので、面白い本に出会うことが難しい。困難なのに、週1回ということもあって、適切なサポートが受けられない。しかも、アウトプットも要求されないので、目的を見失う。結果、自由を持て余し、集中力を欠いてしまう、というふうに。なるほど、こりゃあまずいわ(笑)

    週1回という外的条件はどうにもならないので、今後は「週1回ならリーディング・ワークショップはやらない」と決めるか、もしやるなら、選書のサポートをどうするか考えないといけない。自分がこまめなカンファランスを通じて良さそうな本・評論文を紹介してあげることはもちろんだけど、一人では限界も大きい。友達同士で今読んでいる本を紹介し合うとか、ブックトークをするとか、アウトプットを視野に入れた何か他の仕掛けが必要になる

    「読んだことを黙っている権利」との相克はあるけど、「生徒同士の共有」にもう少し踏み込まないと、論説文のような馴染みのないジャンルでのリーディング・ワークショップは難しい気がしてきた。さて、明日から始まる「評論」のリーディング・ワークショップはどうしよう。やりながら、光明を見つけていきたい。

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