一昔前の国語教育の資料を見ると、「ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップのような考え方は、決して日本になかったわけではないんだなあ」ということを思う。最近も井上敏夫『井上敏夫 国語教育著作集2 生活読みの理論と実践 <Ⅰ>その指導過程・読書指導論』を読んで、やはり同じ思いを新たにした。今回読んだのはこの本に収められている「国語科における自由読書指導」という文章だ。初出は1974年、もう40年以上も前である。メモがわりにその資料を紹介したい。
目次
国語科の「自由作文」
「自由読書」とは何か。井上は「自由作文」を引き合いに出しながら説明している。引用は、まずその自由作文に関する部分。
読書指導における自由読書の指導は、作文指導における自由作文の指導に相当する。
自由作文の時間は、作文の技能や文章のジャンルなどを系統的に学習指導していくのと並行して、ときおり、その間にはさんで、既習の能力や態度を全力回転して文章を書いてみる時間である。今まで身につけた全作文力の応用であり、活用であるところの充実した表現活動である。
そこでおこなわれるのは、事新しく指導事項をかかげての作文活動ではない。自由にめいめいの立場で題材を選び主題をきめ、自分のもっている表現力をフルに発揮して、表現活動をいとなむだけである。その時点における児童の物の見方・考え方・感じ方はもとより、所持している知識・経験のいっさいが活用される創造的な活動であるから、たんに表現力指導という点からだけでなく、人間形成という点からいっても、自由作文の果たす役割は、きわめて大きいということができる。
ここでの「自由にめいめいの立場で題材を選び主題をきめ、自分のもっている表現力をフルに発揮して、表現活動をいとなむ」活動とは、まさにライティング・ワークショップそのもの。一点異なるのは、この自由作文は「作文の技能やジャンルについての系統的な学習と並行として行う学習」として位置づけられていることだ。ライティング・ワークショップではこのような系統学習の作文はなく、その代わりにミニレッスンがあるだけである。
国語科の「自由読書」
この「自由作文」をもとに、井上は「自由読書」についても次のように説明している。
自由読書もまた、その時点における児童の興味・関心にもとづき自身で選択した書物を、児童のもつ全読解力、知識、経験を十二分にはたらかせておこなう読書活動であり、きわめて主体的積極的ないとなみである。そこでは、児童のすでに身につけている文字力・語句力・語法力、その他読みとりの技能が総合的に発揮されるとともに、児童自身の知識・情報が増し、心情が陶冶され、人間変革がもたらされる。この点で、創造的な人間形成の役割をもはたす重要な活動だということができる。
それは、直接、ある具体的な読書技能の向上を目標とした読書活動ではない。けれども、それによって、おのずから児童自身の読書能力は向上し、人間形成にも役だつことの大きいいとなみであるといえよう。
児童が自分の興味・関心に基づいて本を選択し、自分の持っている知識や経験を全て生かす形で読み進めていく…これもまた、リーディング・ワークショップと非常に似た考え方だ。
共通するのは「学習の個別化」の発想
「自由作文」と「自由読書」、どちらにも共通しているのは、「生徒が自分で題材や読む本を選ぶこと」「特定の読み書きの技術の習得を目標とした活動ではないこと」「自分がその時点で持っている知識や経験を総動員して取り組むこと」である。児童生徒の選択権を保証した上で、読み書きの活動に丸ごと取り組ませる点で、こうした取り組みはライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップと同じ考え方を基盤にしている。
こういう考え方の根っこにあるのは、「学習の個別化」の発想だろう。井上は、上記の文章に引き続いて次のように述べている。
学級の全員が、つねに同一の学習事項を追求するのでなければ、学習指導は成立しないと考えるのは、個別化されない一斉指導になずんだ考え方である。学級成員のひとりひとりがそれぞれに、豊かな充実した読書経験をいとなむことができたならば、たとえその資料は別々であり、達成される能力に差異があるとしても、それこそ個別化されたりっぱな学習指導であるといえるであろう。
個別化された学習指導。新教育運動に影響された大正時代だけでなく、系統学習が幅を利かせていた1970年代にも、(当たり前かもしれないが)こういう授業観があったのだ。ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップは、あくまでそれを具体化するためのパッケージの一つとして理解した方が良さそうだ。
RWやWWを、日本の実践との関わりで捉える
僕は、ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップを、「日本にはない新しい授業」と位置づける言い方があまり好きではない。一つにはそれは事実に反すると思うし、もう一つには、そういう二項対立的な文句が無駄な反発を産むことにもなると思うからだ。日米のわかりやすい二項対立が意味を持つ場面もあるのだけど、そういう言い方をするのは別の方に任せたい。僕は、日本のこれまでの理念や実践の中で、WWやRWにつながる要素を拾っていったり、なぜそれが「例外」に止まってしまい定着しなかったのか、どうすればいいのかを考えたりする方に興味がある。
今回紹介した井上敏夫「国語科における自由読書指導」も、リーディング・ワークショップを日本の読書指導の文脈に位置付ける中では、必須の資料だと言えそうだ。