[読書]「読む−聞く」営みを、場づくりの真ん中に置く。石川晋『「教室読み聞かせ」読書活動アイデア38』

石川晋『「教室読み聞かせ」読書活動アイデア38』を読んだ。実は、「読み聞かせ教師」を自認する石川さんのこの本を、僕は実はまだ読んだことがなかった。今回、学び合うコミュニティをどうつくるかという課題意識でちょんせいこさんに色々と相談しているうちに石川晋さんの名前が出てきて、「そういえば石川さんにはこんな本があった」と取り寄せたのだ。良いタイミングで出会えた本だった。というのも、単に読み聞かせ活動が色々と載っているだけではなく、教室で読み聞かせをする根本的な意味を問う本だったから。

石川さんの言う「教室読み聞かせ」の素材は絵本や物語だけでなく学級通信・誕生日通信・新聞などの広範なテクストを含むものであり、その点が一般的な意味での「読み聞かせ」とは異なることに注意。

 

目次

「読むー聞く」関係を中核に据える

風越学園に読書文化をつくりたい。僕はそう思って書いてきたけれど、本書を読んで、僕は自分の思う「読書文化」がひどく薄っぺらなものだったことを教えられた。これまでの僕のエントリを見てもわかるように、僕が「読書文化」という言葉を口にするとき、それは、個々人が読む習慣をつけたり読む力をつけたりするうえでコミュニティの力を利用する、という観点が中心だったのだ。それは、大変な誤りであったと思う。

「読書文化」をつくることへのチャレンジ

2020.06.01

下記エントリで紹介したジェラルド・ドーソン『読む文化をハックする』もとても良い本だと思うけど、それを読んでいる時の自分は、「どうしたら読者共同体ができるか」にばかり関心がいっていて、「なぜ読者共同体なのか」「なぜ教室で本を読むのか」というそもそもを全く問うていない。実にもったいなかった。

[読書]教室に読者共同体を作るための具体的手立て。ジェラルド・ドーソン『読む文化をハックする』

2021.02.20

本書の第一章は、そんな僕の浅はかさをたしなめるように、様々なテクストと、それを教室で読み聞かせる日々の営みの価値について語っている章である。教室読み聞かせがどんなかたちでクラスの中核を担うのか。教師と子どもが、そして子供同士が「読む−聞く」という関係で結ばれるとき、どんなふうにコミュニティがつくられていくのか。石川さん自身の経験談と、そして先達への敬意があふれた先行実践の紹介によって、教室読み聞かせの価値が述べられている。ここはぜひ実際に本書を読んでいただきたい。

また、これは石川さんの著作に共通に見られる特徴で、また、全ての教育実践書が本来そうあるべきなのだが、特にこの第一章で、石川さんが先行実践を丁寧にひろいあげ、その価値づけをし、その上で自分の提案を付け加えている姿勢にふれると、おのずと居住まいを正す思いになる。列挙されている文献で気になるものは検索し、注文しながら読み進める。本書はページ数でいうと170ページあまりに過ぎないのだが、それでも新規性ばかり詐称する薄っぺらな実践書群とはまるで厚みが違う。良い書き手とはまず良い読み手なのだ、ということをあらためて知る。

関係性を回復する「読みあい」の場

読み聞かせを通じたコミュニティの形成。その観点で見逃せないのは、読み聞かせによる関係性の「回復」と、「緩衝物」としての本という2つの言葉だった。

石川さんによると、読み聞かせの効果として関係性の「回復」に着目したのは、村中李衣『読書療法から読みあいへ』らしい。

村中は、医療の現場での老人への読み聞かせや、中年の夫婦の相互への絵本を読み合いといった臨床体験を通じて、「読み合う」場が、関係性の回復を図る場になりうることを指摘する。石川さんはこの村中の主張と自身の強烈な読み聞かせ原体験(これはぜひお読みいただきたい)をもとにして、毀損された教室の関係性を回復する場としての「教室読み聞かせ」に注目するのだ。

もちろんどの程度を「毀損」ととらえるかに個人差はあるにしても、人間関係は常にそう呼ばれるほどのあやうさをはらんでいる。小学校高学年ともなれば、何もなくても集団はどんどん細切れになり、固定化し、他の仲良し集団との距離は遠く、垣根は高くなる。それさえも毀損ととらえることも可能であり、たとえばそういう状態から一人ひとりの自由なコミュニケーションを回復するために、「教室読み聞かせ」という場のスタイルを使うのだ。

緩衝物としての「本」(テクスト)

それにしても、何故このとき、他の手段ではなく「教室読み聞かせ」を使うのだろう。その問いに答えるのが、「緩衝物」という言葉だ。石川さんは、「読み聞かせ=幼稚園か小学校低学年のもの」というイメージを否定して、本書冒頭(4ページ)で次のように述べる。

本当は、直接的な指導の言葉が通りにくくなる高学年や中学生、高校生ほど、読み聞かせの訴求力と可能性は高いと言える。なぜなら、コミュニケーションの間に絵本や物語、プリント類などの「緩衝物」がはさまることで、メッセージが間接的に弾力性のあるものとして伝わっていくからだ。

一定以上の年齢になると、直接的なコミュニケーションがもつ息苦しさに敏感な人も増えてくる。また、先述の通り、多くの人は自然と一部の人とはコミュニケーション過剰になり、その他の人とは過疎になる。そういうとき、絵本や本は、コミュニケーションの間にはさむ「緩衝物」として機能する。間に「本」をはさんだ距離感のまま、自分の肉声を相手に届け、その場をゆるやかに共有するために。緩やかな共同体をつくるために教室読み聞かせは役に立つ。

このことは、実は個人的には大変よくわかる。というのも、僕は非言語をともなう対面コミュニケーションが苦手で、人と会って話すとそれだけで疲れてしまう人だからだ。生徒との距離感もよくわからないので、間に本や生徒の書いたものを介するコミュニケーションが、僕には大変心地よい。

理念は日々の実践の細部に宿る

さて、僕にとって本書の魅力の中核は、こうした意義が強調された第一章にある。もちろん、教室環境の整え方を記した第二章、国語の授業でできる読書活動を取り扱った第三章、そしてクラス担任ができる読書活動を列挙した第四章も、非常に具体的で有用だ。準備物や所要時間の記載まであり、ここは良い意味で明治図書らしい。理念は日々の実践の細部に宿る。というよりも、言葉以上に日々の実践の細部に表れているものが、その人の理念と言ってよい。この具体的な実践群はぜひ本書を実際に手にとってほしい。とはいえ、第三章から読んで、そこにかかれていた何々の実践をやってみました、という程度では何も変わらない。一章を読み、その理念に共感できるかどうかが、あなたにとっての本書の価値を決めると思う。

個別の学びだからこその、場の重要性

さて、ここからは、本書を離れて自分の現在を書いてみる。風越学園でのライティング・ワークショップ(作家の時間)やリーディング・ワークショップ(読書家の時間)は、その子が題材を選んで書いたり読む本を選んで読んだりする「個別の学び」が中心だ。しかし、というよりも、「だからこそ」、コミュニティのあり方が大事な場面に多く出会う。お互いの存在や選択を尊重しあえる人間関係に支えられてはじめて、書き手や読み手としての自由な選択が可能になるからである。僕は元来そういう観点はとても薄い教師だったのだが、今ようやく「コミュニティづくり」の観点で、作家の時間や読書家の時間にできることをあらためて考えて、色々と試しているところだ。

例えば、作家の時間の下書きを途中で読み合う活動では、今年はじめて「相手の下書きを音読する」試みをした。これは読まれるほうの精神的ハードルは高いのだけど(嫌がる子には無理強いはしなかった)、そうやって未完成な互いの作品をまずはきちんと「受け止める/受け止められる」関係をつくることが大事だと思ったからだ。

また、読書家の時間でも、授業終了5分前に行っていた本の内容を紹介しあう活動を、今週からちょんせいこさんのホワイトボード・ミーティング®にならって、「ペアをつくってお互いに本の紹介をし、一方が紹介した内容を相手がひたすらメモをして、再話する」活動に切り替えた。これも「アウトプットすることで話し手の理解を促進する」や「色々な本に出会う」ことに軸をおいたこれまでとは異なり、「本をめぐって聞きあう関係性をつくる」ことを主眼におこうと思ったからである。他にも毎回トランプでサークルの並び順や席をシャッフルしたりして、とにかく色々な人の言葉を受け止める機会をつくることに、今は力を注いでいる。

ちょうどそんなタイミングに本書を読んだのは大きい。教室読み聞かせが、もう少し敷衍すれば、「本を中核にすえたコミュニケーション」が場づくりにどんな価値を持つのか、読みながらゆっくり考えることができた。具体的な実践のアイディアもいくつか得た。風越の森にある草花を使ってのしおりづくりはいいな、とか、ホームや前期と後期などの異学年の子ども同士で絵本の読み合いを続けたら、ふだんの仲間や授業での関係を超えた、ゆるやかなコミュニティを作れるのではないか、とか。いずれにせよ、個々のイベントが散発的におきるのでは意味がない。本を中核にしてコミュニティをつくるうえで何が必要なのか、考えていきたい。

読書文化の中核にある「場」をつくる

石川さんが示唆するように、「読書文化をつくる」というとき、その中核にあるのは「読むこと」をめぐる営みによって紡がれる場=人間同士の関係であるべきだった。そうでなくして、文化になるはずがないし、何のための文化なのかという話にもなろう。文化をつくる営みは、本書の扱う「読む−聞く」でもいいし、「書く−読む」でも良い。いずれにせよ、読む行為や書く行為が教室の中核にあり、その周囲に学び合う人間同士の関係がゆるやかにつくられる場をデザインすること。それこそが、国語教師の専門性の、少なくとも非常に重要な一要素ではなかったのか。自分は、そんな基本的なこともわかっていなかったのだな。でも、それに気づくことができてよかった。僕にとっては、今のタイミングで読んでよかった本だと思う。

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