[資料]「マルチプル・インテリジェンス」「マインドセット」「ラーニング・スタイル」「Grit」…効果が誇張されがちな研究にどう向き合う?

ハワード・ガードナーの「マルチプル・インテリジェンス」、キャロル・ドゥエックの「マインドセット」、アンジェラ・ダックワースの「Grit」….。教育の世界には、いくつか人気の「理論」があります。しかし、人気の理論には、その後の研究で再現性の乏しさなど問題点が指摘されているものも少なくないようです。Twitterやfacebookでたまたま再現性に関する資料がシェアされていたので、自分の備忘録として記録します。なお、僕にとって一番大事なことは最後に書いてあるので、読む人は最後まで読んでください。

写真は南軽井沢レイクニュータウンにあるレイクガーデン。ゆえあって、最近わりとひんぱんにこちらに行っています。

目次

人気だけどエビデンスが不足している理論たち

Reversals in psychologyという記事に、エビデンスが不足している心理学の主張について一覧がまとめられていました(無藤隆先生の facebookでシェアされていました)。作成者の GavinさんはAIで博士号を取得中の方。リストの中にはミルグラム実験やピグマリオン効果など有名な例もあるけど、ここでは教育の分野で有名なものだけかいつまんでメモ。上記記事には、それぞれの根拠となるレビュー論文へのリンクが貼られているので、よりちゃんと検討したい方はそちらも参照されると良いと思います。以下の文章は自分の感想も交えてメモってるので、ご注意ください。

マルチプル・インテリジェンス

ガードナーのマルチプル・インテリジェンス(多重知能理論)は、学校で取り扱う知能が偏っていると考える人達に人気です。しかし、上記記事では、ガードナー自身がこの理論を実証したこともない事実に加えて、教育現場で流布しているが実証的裏付けに欠けており、教育実践の基盤とすべきではないとするレビュー論文へのリンクが貼られています。

ラーニング・スタイル

人にはそれぞれにあう「学びのスタイル」があるというラーニング・スタイル論は、「これがそのスタイルだ」というモデルの無数のバリエーションを生んでいます。しかし、上記サイトによると、生徒の好みの学習スタイルにあわせることが客観的な達成度の向上につながる証拠はありません

イギリスでは政府によって「学習の個別化」(peasrsonalized learning)が推奨されたこともあり、ラーニング・スタイルが多くの教師によって受け入れられました。しかし、その多くは科学的根拠のないもの。これについては僕もイギリスのエクセター大学大学院で学んでいた時に「疑似科学が教育に影響を与えた例」として教わっており、その経験をもとに次のエントリを書いています。

「自分に合う学習スタイル」は存在するのか? 疑似科学としての「ラーニング・スタイル」

2018.04.15

いまでも僕の基本的な考え方は同じです。「好みの学習方法と効果的な学習方法は同一ではない」し、そもそも「人間の学習方略には相違点よりも共通点のほうがずっと多い」はずです。それなのに差異を強調するのは、だいたいの場合においては得策ではないと思っています(この話は『教師の勝算』にもありました)。

マインドセット

キャロル・ドゥエックの「マインドセット」理論も教育の世界で人気です。などと他人事のように言ってはいけない、僕もこの本、買いました。しなやかマインドセット(growth-mindset)やこちこちマインドセット(fixed-mindset)という訳語が印象的でしたね。

しかし、このマインドセット理論ものちに批判されます。Reversals in psychologyでは、Growthマインドセットを教える介入の結果を扱った大規模実験の効果量が小さかったことが指摘されています。他にも、こちらの論文To What Extent and Under Which Circumstances Are Growth Mind-Sets Important to Academic Achievement? Two Meta-Analyses でも、メタ分析の結果の全体的効果の低さが指摘されています。こちらのnote「才能ではなく努力を褒めろ」の研究は再現性がないという事実」にも関連記事があります(noteのほうはtwitterで@MathEdrさんに教えてもらいました)。

Reversals in psychologyでは、他にもマシュマロ・テストや1万時間の法則など、教育界で有名な理論についての批判が紹介されています。よかったらどうぞ。

Grit(グリット)

アンジェラ・ダックワース「Grit やりぬく力」の邦訳が出たのは5年前、これも話題になりました。

このGrit については、広島大学博士課程在籍中の中村大輝さんが「非認知能力とGritは本当に有効か?」というnote記事を書かれています。noteといっても僕のブログのようなお手軽なものではなく、研究のアウトリーチ活動として書かれた本格的なもの。非認知能力ってそもそもいつから言及されたの?から始まる文章なので、ぜひ最初から最後までお読みいただきたいのですが、それでも乱暴に要約すると前半の「非認知能力」については以下の点が指摘されています。

  • そもそも非認知能力に早期介入したときの長期的効果に関するものはほとんど存在しない。
  • 長期的研究でないものだとしても、研究デザインに問題がある研究が多い。
  • 研究デザインの質が高い研究にしぼっても、その結果はばらばらである。

これは、まあそうなんでしょうね。非認知能力への介入効果って、素人が考えても測定するのが難しそうですもん…。

また、noteの後半では本論としてダックワースの「Grit」に言及されており、

  • そもそもGritは独立した概念ではなく、従来「誠実性(Conscientiousness)」と言われてきた概念と同じなのではないか(ジャングル誤謬)
  • Gritと学業成績の関連は低い。
  • 教育政策として採用するにはエビデンスが不足している。

ことが指摘されています。Gritの効果の低さだけでなく、そもそもGritという概念を用いること自体の妥当性にも疑問があるということですね。

現場教師としては何をどう受け止めたらいいの?

さてさて、メモはここまで。以下はひとりごとです。一時期もてはやされた人気の理論にこんなふうに批判がたくさん出てくると、現場の教師としては考えてしまいますね。どうしたらいいのかって…。考えるべき大事な点は、いくつかある気がします…(ここからは内省モードなので自然と文体も常体になってしまいました)。

「エビデンスにとぼしい=間違いだ」ではない

まず、「エビデンスに乏しい」結果は、「その理論が正しいことを保証しない」のであって、「その理論が間違っている」わけではない。ましてや、「その理論とは逆の結論が正しい」ことを意味するのでもない。とりわけ、非認知能力のようなあやふやなものは、研究デザインが非常に難しいはず。「たしかにありそうだけど研究するのはむずかしい」ものも世の中にはたくさんあるのだから、「エビデンスが弱いからダメ」とは言えないということは、忘れずにいたい。自分の「非認知能力」(能力というより「特性」という言葉で捉えているけど)についての見解は下記エントリの通りで、「外からの働きかけによっても変化しうる特性」程度に考えている。

「非認知能力」を「育てる」「評価する」ってどういうこと?

2020.02.09
ただし、これは一現場教師としての話であって、巨額のお金を投じる教育政策については話は別。強いエビデンスのあるものを優先すべきじゃないかな。だから中村さんが埼玉県の学力調査に批判的な点については納得できる。

批判で学問は進んでいくことも忘れずに

また、学問は批判で進むもの。これだけ色々な理論に批判があると「何を信じたらいいの?」状態になってしまうけど、そもそも批判がたくさん出ているのは「良いこと」だという原則も忘れずにいたい。Reversals in psychologyでも批判が多いことをオープンだと肯定的にとらえていて、実はそこが一番印象的だった。批判があるから、前進の余地がある。良くないのは、一見もっともらしい理論に「正解」を求めてしまう側のほうである。

自分の好みの世界観を自覚する

このエントリに書いた4つの能力についていうと、僕は「マインドセット」や「Grit」についてはなんとなく肯定的だった。ついでに「1万時間の法則」にも「そりゃそうだよね」と肯定的だったかも。それが僕のバイアスである。僕には大した才能はないけど、「地味にコツコツ努力」できてしまう人で、その結果自分の幅を少しずつ広げてきたという自己認識があるので、そういう自分の人生の物語や世界観を支えてくれる理論には、批判の目を向けにくいのだ。

一方、マルチプル・インテリジェンスやラーニング・スタイルも、「人それぞれの良さがあるはずだ/あっていい」「人それぞれの学び方があるはずだ/あっていい」という、それ自体は美しい世界観や願望を支えてくれる。これを信じる(信じたい)人はたくさんいるだろう。だから、エビデンスに乏しくても人気なのだろうと思う。

いずれの場合にせよ、ある研究に対して「この理論はいい!」と思う時や「怪しいんじゃないの?」と思う時、その判断基準となる自分の世界観には自覚的でいたい。その世界観を、安易に研究で保証してもらおうとしないようにしたい。

「エビデンス攻撃」で世界観は変えられない

ある考え方や理論が好きな人に「それ、エビデンス不足してますよ」と言ったところでそれ以上話が進まないことを、僕はたくさん経験してきた。例えば、先述のとおり僕はラーニング・スタイル論にもとづいて授業をデザインすることには明確に批判的だけど、世の中には「人それぞれの学び方があるはずだ/あっていい」という願望がベースになっている人もいるだろう。その人に、「それはエビデンスが不足してて…」と言ったところで、何が変わるだろうか。

「自分に合う学習スタイル」は存在するのか? 疑似科学としての「ラーニング・スタイル」

2018.04.15

異なる世界観の人同士でどのように話が可能なのか?

では、その事も踏まえた上で、異なる世界観の人同士でどのように話ができるのか?例えば、僕自身は、学問的知見という、人類がこれまで蓄積してきた地道な知の営みに対しては、できるだけ敬意を払いたいと思っている人間だ(実際に払えているかどうかは別としても、気持ちだけは….)。一方で、世の中には、授業者として非常に高い力のある人でも、特定の世界観を色濃く持っていて、それが研究で支持されなくてもどうでもいい、という実践者もいる。

その人に「いやいや、その姿勢はどうなの?」「教員が学問的知見を軽視してOKなの?」と突っ込むことは簡単でも、それであまり意味のある会話になるとは思えない。先述のとおり、エビデンスが不足していることは「間違い」であることを意味しない。また僕だって自分の好みの価値観を支えてくれる研究には無批判になりがちな点では、「お互いさま」のところもある。その自覚を持ちつつ、同時に「相手がこれまで現場で培い、その人の世界観を強固にしてきた実践知の中にも、学問的知見という形では表現しにくいかもしれないが、大事なことが含まれている」前提で臨まない限り、話は進まない

こういうの、本当に「言うは易し、行うは難し」だよなあと思う。それでも言語化を一つひとつしていって、頭で理解したほうが行動に結びつくと思うので、ここに書き留めておこう。最初は参考になるサイトをメモするつもりだけで書き始めた今回のエントリ、意外な着地点についたけど、今回はここまで。

 

7/7追記)非認知スキルに関する無藤先生のコメント

保育・幼児教育の専門家でもある教育学者の無藤隆先生(白梅学園大学子ども学部名誉教授)より、このエントリにコメントをいただきました。専門家の見解として参考になるものなので、許可を得て追記します。

非認知スキルというのは極めて雑多なので、細かくいえば、わりと教育介入可能なものも多少はあると言ってよいと思います。(京都大学の森口さんの近著と8月に北大路から出る「非認知能力」についての概観本が参考になります。)
それとは別に、多知能理論等々はかなりだめなものと、概念的なイメージとしていけそうなものと、実証的に耐えるものと、それぞれいろいろとあります。

例えば、多知能理論をまともに受け止めた教育心理学者がいたのかどうか。実証しようにもそういう精緻な理論があるわけではありません。ガードナーの議論はもっぱら、伝記と才能が突出していることの事例(と多少の才能の脳における局部性)に基づいているのです。実証化した質問紙もありますが、信頼性・妥当性が乏しい感じでした。日本の追試もうまくいっていないと思います。

ラーニング・スタイルも同様です。研究と応用はとっくに方略(ストラテジー。これは無数と言って良いほどに色々あるのを使い分ける)に移っています。

グリットはそもそもダックワースの個人のものだし、その本がベストセラーになっただけで、追試などをあまり読んだことがないのですが、さてどうなのか。明らかにもっとたくさんの研究での確認と拡張が必要なところです。

マインドセットはかなり考える必要があります。小規模の実験室的研究がドゥエックの研究室でたくさんやっていて、その追試発展も世界中でかなりあり、結構うまくいっているからです。ところが学校教育場面で適用した大規模研究ではパッとしないのです。少なからぬ教育心理学者は最初は驚いたと思います(私も期待していたのでがっかりした)。でも、たぶん、マインドセットは現実の中で多少機能したとしても他の変数と混じり合い、訓練しても続かないのかもしれません。

エキスパートの1万時間はサイモンとエリクソンなどの本で有名になりましたが、元はチェスの話しです。そもそも熟達の程度はちゃんと定義されていませんし。才能の程度もあるでしょう。分野によって異なるのは当初から皆そう思っていたと思います(研究者は)。ビジネス本になって、一人歩きしたのでしょうね。でも、見当つけのいわば第一次近似としては割とよいメドだと思います。(英語学習だと、毎日3時間学ぶと、10年間、ちょうど中1から大学4年まで。もっともらしいです。)

 

 

 

この記事のシェアはこちらからどうぞ!