今朝、全国学力・学習状況調査「国語」の問題を読みました。実はSNS上でこの問題を批判する人もいれば面白かったという人もいて、どんなもんかなと興味を持ったので。…..で、小学校と中学校ともに読んだのですが、「え、こんな問題? つまんないなあ….」という第一印象以上に、やはりちょっと問題じゃないかとも感じたので、その雑感を書いておきます。断っておきますが、私立の風越学園はこの調査に参加していないので、著作権上公開されていない部分について、小学校のほうの文章は読めてません(中学生のほうは藤村なので読めますね)。ちゃんと読めてないのに批判すんなよという批判は実際そうなので甘んじて受けますが、でも、ちゃんと読んでも全体的な印象は変わらないんじゃないかな…とも思っています。また、過去の問題との比較とかもしてません。だから、あくまで今回の問題を見ただけの雑感ですね。
調査問題・正答例・解説
https://www.nier.go.jp/25chousa/25chousa.htm
さて、今回の問題、国立教育政策研究所のサイトに、問題や解説が掲げられています。これを見てもらえるとわかるんですけど、これ、ほぼほぼ「実用日本語運用能力試験」なんです。目の前の言語情報をどう正確に素早く処理するか、そして目の前にいる他者にどう言語的に伝えるかというだけ。なんというか、「国語は日常生活や他の授業で活用できる言語力を養ってくれればそれでいいよ」というメッセージを強く感じます。この問題を批判する人も面白いと思う人も、このメッセージに対する反応の違いなんじゃないかな。僕は前者のタイプ。
いまさら言うまでもないことですけど、「国語」という教科は賛否あれども国民を形成する装置として始まっていて、国家の思惑としても単に実用的な言語運用能力を育成する以上の機能が期待されてきました。そんな国家の思惑と微妙に重なったりずれたりしつつ、現場の教員もその役割を果たしてきた歴史があります。日本人のアイデンティティともかかわる古文や漢文が扱われることはもちろん、いわゆる近代文学の名作や外国の翻訳文学までも教科書に掲載され、人々は国語の授業を通して時間的にも空間的にも自らから遠くにいる他者の文章や考えにふれてきました。その経験が広い意味での教養の基盤となることに国語の意義を感じてきた国語教員は、実際に少なくないんじゃないかと思います。
また、(これは今回の試験の射程外の話ですが)高校の評論は、現実の高校生の読書生活から乖離した難解な評論が扱われることも多く、念のため断っておくと僕はその問題意識から『中高生のための文章読本』という本をつくったのですが、でも結果的に、特に学力的に高い高校生にとって、高校の評論が大学の人文社会科学系の学問の世界の扉となっていたことも否定できない側面でしょう。(これはこれで、国語教員の専門ってなんだ?というアイデンティティクライシスを教員にもたらしもするのですが…)
さらに、詩歌は自分では思いつかない言葉の組み合わせの美しさやリズムにも出会わせてくれます。手垢のついた言葉遣いを超えた、言語と言語の意外な組み合わせによって、未知の世界が立ち上がってくる。言語そのものが意思をもつかのように動き出して自分の認識や感覚を揺さぶる経験は、詩歌特有の体験です。
これらの例のように、言葉を通じて広い意味での他者性にふれることで、自己の世界認識を揺さぶり、更新し、言葉によって自己を形成する機会に、国語教育はなってきた。そんなの論証できないじゃんかと言われたら、少なくともそれを目指してきた側面はあるわけですね。そこでは言葉とは、自分自身を変えるものでもあったわけです。
でも、そういう意識が、この学力調査の問題には、ほぼうかがえません。話し合い、インタビュー、チラシ、スピーチ、手紙など、そもそも問題の扱う領域のほとんどが日常的で実用的な言語使用です。こうした傾向の背後にあるのは「言語とは、発話者がすでに持っている情報を、目の前の相手に伝える手段である(手段にすぎない)」という、とても単純な、あえて言えば薄っぺらい道具的言語観。そういう言語観のもとで作られるテストが小学校や中学校の国語の力をはかるものとして使われ、このテストを目標に国語の授業をしていく学校が多く出てくるわけ。これ、本当にいいんでしょうかね。これなら、かつて批判された「文学偏重」のほうがましだと僕は思います。
いやいや、中学の調査問題には文学(島崎藤村の短編)があるではないかという人もいるかもしれません。でもこっから先はまあ好みの話かもしれないんですが、この問題、あえて言うと僕は文学の問題になってないと思います。そもそも文学の問題をつくるとき、僕は小問を組み合わせて状況や心情の読解を重ねつつ受験者を作品世界に誘導して、どこかで中心的な核になる設問を設けるのですが、この問題は、内容の読解はほぼしていないのに、冒頭や結末の効果だけは聞いている構成です。つまり作品をほぼ読み解いてないのに、表現効果の批評だけはさせるって、なんだか藤村に失礼じゃないのっていう感じがしました。まあ、言ってしまえば、表現に立ち止まらなくても表面上さらっと読めれば答えられちゃう程度の問題で、文学を素材にしている意味があまり感じられないんですよね。
とまあ、勝手な雑感をいろいろと並べました。もちろん国立教育政策研究所の解説を読むと、学習指導要領の指導事項のここを元にしてますとか、いろいろ書いてあるんですけど、でも、これはちょっとなあという印象は変わりません。この学力調査って毎年の「試験対策」が話題になる程度には教育現場への影響力があるので、なんか一言、ぼやきを書き残したくなってしまった次第です。にしても、これだけ「実用」が強調されると、国語教育にも英語教育みたいなCAN-DOリストが出てくる日もそう遠くないのかもしれません。願わくば、思考をつかさどる母語がそんな痩せた言語教育になりませんよう…。
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