風越の空間と意欲の関係は…?「学びのかたちをつくる会」覚え書き。

うっかりしてもうだいぶ前の話になるのだけど、5月26日(金)ー27日(土)に「学びのかたちをつくる会 Vol.1『まわる・まざる・まなぶ』」が開かれた。僕も2日目の分科会「遊環構造のある教育空間に込められた願いと大人に必要なかまえとは?」にスピーカーの一人として出て、この校舎の設計者でもある仙田満さん(環境デザイン研究所)、風越にたびたび足を運んでくださる研究者の赤木和重さん(神戸大学大学院)とお話させてもらったので、その時のことを忘れないように記しておこう。

[告知]5/26(金)-27(土)学びのかたちをつくる会 Vol.1「まわる・まざる・まなぶ」

2023.04.10
写真は先日行われたアウトプットディのクロージングの場面から。2階のぐるっと円を描く廊下に全員が座り、全員で大きなサークルを作った。校舎の構造をうまく使っていい場を作った例だったと思う。

目次

空間は人にどう影響するか?

「遊環構造」を持つ風越学園の校舎に対する僕の基本的スタンスは、すでに下記エントリに書いてあって、僕の考える風越の校舎の特徴は、今読み直しても基本的にはここに書いた通りである。

[読書]風越学園の3年間とこれからを考えつつ読む。仙田満『遊環構造デザイン』

2022.12.04

簡単に要約すると、以下のようになる。

  1. 風越の遊環構造デザインは、「回遊性」を柱とし、そのコンセプトは、「歩いていて楽しい町」「歩きたくなる町」である。
  2. だから、風越の校舎の中で子どもたちが走りたくなる、動き回りたくなるのは、校舎の環境に誘発された当然のことである。
  3. そうした校舎の特徴が最も良い形で表れるのは、「私をつくる時間」(2023年度からは「マイプロジェクト」)である。
  4. 一方、集中してコツコツと積み上げるのが必要な「土台の学び」(の少なくとも国語)の学習には、向かない面があり、そこをどうするかは授業担当者としての課題だと感じる。

遊環構造デザインの特徴はわかった。それが風越だとどういう形で人の動きに影響するのかも、それがプラスの面で生かされる場面があるのもわかった。しかし、国語の授業においては静かに集中して学びたい場合など、この校舎の構造が向かない場面があり、そこをどうするかが課題である。

場が喚起する「三つの意欲」という切り口

5月27日(土)は、こういう僕の問題意識を、やや切り口を変えて「場が喚起する三つの意欲」という視点で整理を試みた。空間には確かに人間のモチベーション(ある行動を実行し、達成しようとする意欲)に働きかける力がある。しかし、ある行動が生起してから終了するまでのそれぞれの段階では、必要なモチベーションが異なり、それを喚起する空間のあり方も異なるのではないか、と思ったのだ。

ちなみに、当時はまだ読んでいなかったが、のちに読んだ速水敏彦『内発的動機づけと自律的動機づけ』では、「内発的動機づけは行動喚起には有効だが、行動の持続には影響力を持つとは限らない(p17)」という指摘がある。つまり、ある一つの行動でも、そのプロセスの一部である「喚起」と「持続」では別種のモチベーションが働くという指摘である。それに関しては、僕も速水さんと似たようなことを考えていたことになる。

僕はモチベーションの研究者ではないので以下は「ただの思いつき」の域を超えないのだが、仮に、次のように三つの意欲を置いてみた。

  1. 「いる」意欲
  2. 「やってみる」意欲
  3. 「続ける」意欲

「いる」意欲

「いる」意欲とは、何かをするしない以前に、まずはその場(学校教育の文脈では主に学校。ここでは風越学園)に「いる」「いたいと思う」意欲である。わかりやすく言えば、空間が心理的にも身体的にも「居心地の良い場所」になっているかどうかが大事になる。空間がこの意欲を喚起しないと(いたいと思う場所でないと)そもそも次の「やってみる」段階や、まして「続ける」段階にたどり着けない。その意味で、これは三つの意欲の内で最もベーシックな、基盤となる意欲である。

僕がこれを一つの「意欲」として取り上げたのは、ちょうど5月に読んだ鹿毛雅治『モチベーションの心理学 「やる気」と「意欲」のメカニズム』に倣ってのことである。鹿毛は「今、ここ」を充足させようとする「生活の意欲」を達成の基盤の一つとして捉えて、こうした「今、ここ」のモチベーションを支えるのが、身体的・心理的コンディションが良好に保たれるような環境だと指摘している(同書、p335)。

「やってみる」意欲

二つ目の「やってみる」意欲は、文字通り何かを「やってみたい」という意欲のこと。意欲の喚起の仕方には内発的・外発的はじめ色々な方法があると思うが、空間との関わりで言えば、空間が「やってみたい」と思わせる出来事を誘発する仕掛けになっているかどうかが大事になる。そのためには、興味が掻き立てられるような偶然の出会い、即興的で生成的なイベントが起きやすい空間環境であることが望ましい。

「続ける」意欲

最後の「続ける」意欲は、ひとまず「やってみる」で始めたことを、持続して完了させる意欲のこと。空間との関わりで言えば、落ち着いて一つのことに向かい、意識的にある行為を持続させるモチベーションを、環境がどう喚起し、支えるか、という点が問題になる。

風越の空間が喚起するもの、しにくいもの

このように「三つの意欲」を整理した上で、風越学園の遊環構造は、「いる意欲」と「やってみる意欲」は大いに喚起するが、「続ける意欲」に対しては効果的に働きにくいのではないか、と述べたのが、5月27日の僕の発言の骨子である。

風越の校舎は、開放的で、色々なところにリラックスできる場所があり、また隠れる場所もある。そして大きな窓からは浅間山が望め、森も見える。校舎環境の居心地の良さは、そこに集う人々(子どもやスタッフ)の心理的・身体的コンディションを整えて、鹿毛の言葉を借りれば、「今、ここ」を充実させるモチベーションにつながるだろう。平たく言えば「自分はここにいて良いと思える」「ご機嫌に過ごせる」環境が大事、ということだ。

また、回遊性を特徴とする遊環構造は、それだけ歩き回ることを誘発し、その結果、偶然の出会いや、そこでの生成的なイベントを多く生み出す。アウトプットディなどはその最たるもので、スタッフの僕でさえ色々なところに目移りしてしまう。それだけ興味を喚起して「面白そう」「やってみたい」と思わせる瞬間を、風越の校舎は多く演出してくれる。

一方で、こうした特徴を持つ風越の校舎は、その「誘い」「刺激」の多さゆえに、ぐっと集中して何かを積み上げ、持続するには不利に働くのではないか。風越の個人プロジェクトには「やりっぱなし」「尻すぼみ」も少なくない。それは、気軽にプロジェクトを始められ、失敗できる良さでもあるし、個人の探究とはそもそもそういうものかもしれないので、「問題」とまでは捉えていないのだが、風越の校舎が集中しにくくて、集中や持続に向いてないのではないか、とは思っている。

そしてこれを、速水敏彦の説明を借りて言うと、「風越の校舎は、内発的動機づけには働きかけやすい一方で、自律的動機づけには働きかけにくい環境ではないか」とも言いかえられそうだ。

もちろん何事もゼロか100かではないので、こういう校舎の中でも、2階のカウンターなど、比較的集中しやすい場所を見つけて過ごしている子もいる。

「続ける意欲」をどう喚起するか

さて、この大ざっぱな分析が仮に正しいとして…、では、僕たちはどう考えると良いのだろうか。まず考えられるのは、「空間が喚起しにくい「続ける意欲」を、授業をはじめとする他の環境で喚起する」やり方だ。

実際にいま僕がしているのはこれに近い。僕は子どもたちに「継続して学ぶこと、努力することの価値」を語りもするし、主に漢字書き取り学習という自分の教科の守備範囲を通じて、「持続的に学ぶための方法」を教えることを意識している。複雑なものは分解して覚える、練習よりもテスト(検索練習)をする、具体的で達成可能な目標を立てる、自分のやり方を振り返って改善する….などなど。もちろん、これは僕の独創ではなく、読書猿『独学大全』やヤナ・ワインスタイン『認知心理学者が教える最適の学習法』、菊池洋匡『「記憶」を科学的に分析してわかった小学生の子の成績に最短で直結する勉強法』などの、学習法の本で紹介されているものばかり。こうやって効果的に学習する方法を知り、実践し、実際に成果を上げることで、持続的に学ぶことの価値も実感し、やる気も高まっていく。実際に、この一学期を振り返ったときに「漢字を頑張った」と嬉しそうに振り返る5年生が多かったので、「持続的に学ぶための方法を教える」ことは、効果があるのだろう。

他の選択肢はあるのか?

では、上記のような「環境以外のところで頑張る」以外の選択肢はあるのだろうか。ある。5月の鼎談では、そのヒントになることを、鼎談相手の赤木さんや仙田さんが語られていたと思う。

学びの質を「やってみる」重視に転換する

まず、神戸大学の赤木和重さんは、鼎談の中で、この校舎の「遊環構造が必然的に偶然をつくっている」と述べて(これは、この空間の回遊性が偶然の出会いを喚起する構造を持っていることの上手な表現だ)、それを活かす形で、「従来の学びを手放」して、「楽しいことで、今までの学びからちょっと外れる(ギリギリアウトにする)」価値を述べていらっしゃった。これは、僕の解釈で言えば、「続ける意欲」を喚起することを頑張ろうとするよりも、この校舎の強みを最大限に活かす形で、学びの質を、生成的・創発的・偶然的な楽しさを重視する、「やってみる」意欲を最大限に活かすものに積極的に転換しようという提案である

なるほど、確かにこういう道はありうる。そして、風越の校舎の設計を考えたときに、こういう方向の学びを追及することがあっているようにも思う。ただ、一方で、正直にいうと今の僕はこの提案には100%は乗り切れないな、とも思う。これは結局は学習観の問題だ。思うに、学習とは、決して楽しく、流動的で生成的なものだけではない。人がある程度ものごとに熟達しようとしたら、ほとんどの場合、そこには「大変だけど持続的に頑張る」フェーズが出てくるし、それは「やってみたい」意欲だけでは乗り越えられない。

もちろんどちらか一方だけではないし、赤木さんもそれは承知の上で「やってみる」の比重を高めることを提案しているのだろう。しかし、僕はやはり根っこのところで「やってみる」よりも「続ける」価値を重視してしまう人間なのかもしれない。ただ、それはむろん、僕自身が「頑張れて続けてしまえる子どもだった」事実と切り離せないし、実際に多くの子どもはそうではないので、このバイアスは僕自身の課題でもある。

「居続ける」ことの価値を大事にする

赤木さんが、僕の言葉で言う「やってみる」意欲に注目していた一方で、仙田さんが、僕の提案した「続ける意欲」に関連して、「自分の居場所を見つける、居続けられることが大事」と指摘していたのも面白かった。この、「居る+続ける」が組み合わさった「居続ける」という言葉が印象的だ。もともと僕は「いる意欲」が「やってみる意欲」「続ける意欲」に先んじて存在する基本の意欲だと思っていたが、「居続ける」という言葉を見ると、「いる意欲」がもっと直接的に「続ける意欲」につながる可能性を示唆する気がしてしまう。そこまで言わなくとも、「居続ける」=「ご機嫌に過ごせる」環境が、「続ける意欲」に直接つながる可能性は、十分に考えられていい。

僕はその可能性を、読書家の時間で、各々が自由に本を読む時間のときに感じる。このとき、「集中できるように」と閉鎖的な教室空間で子どもたちの座席を決めて本を読ませることもできる。僕は去年時々これをやったのだが、この方が明らかに集中する。しかし、「自分の読みやすい場所を見つけて読んでおいで」と言うこともできる。そして、こちらはときに無駄なおしゃべりも生まれてしまうのだが、居心地の良い場所を自分で見つけてそこで過ごすことが、読むこととの幸福な出会いにつながり、結果的に読み続ける意欲につながるのではないか、そんな期待も僕は持っている。だからこそ、読書家の時間は自由に読む場所を選んでほしいし、ときには屋外で自分一人の場所を見つけて読んでほしい。

風越の空間とどう付き合うか?

風越の空間は、少なくとも僕の主観では、「いる意欲」や「やってみる意欲」は喚起しやすいが、「続ける意欲」を喚起しにくい。では、この空間で、この課題と僕たちはどう向き合えばいいのだろうか。このエントリではいくつかの可能性を示してみた。一つは、他の方法で「続ける意欲」を喚起しようとする道。もう一つは、「いる意欲」が「続ける意欲」につながる可能性をもっと積極的に評価して、その繋げ方を模索する道。さらに、この校舎の特性に振り切って、「続ける意欲」よりも「やってみる意欲」を重視したカリキュラムに進んでいく道である。今の僕は、このどれが正しいともわからないし、もしかしてそれ以外の道もあるかもしれない。でも、この空間の特性を考慮しつつ、ひとまずはこの三つの選択肢を視野に入れ、そこから自分がいつ何を選び取るのか、実践を積み上げていきたい。

 

無藤隆さんより補足コメント

このエントリを書いた後で、幼児教育が専門の無藤隆さんより、次のコメントをいただいた。幼児教育の心情・意欲・態度とのつながりは全く意識していなかったので、許可を得て転載します。

いる、やってみる、続ける、は幼児教育の資質・能力の学びに向かう力に始まりを捉えることができそうです。それは、心情・意欲・態度としてあります。心情はその環境に安心していることに支えられて周りの環境からのいわば呼びかけに応える心情、意欲はやってみたいと特定の活動を始めるところ、態度はやりたいことをイメージして粘り強くそちらに向かって進んで行く意思と工夫。

なお、ある空間にいることは、まさに幼児教育の原理そのものです。園の環境の中にいて、そこから環境との出会いを喚起していくことを基本とするからです。その空間の探索と熟知の循環が私の言い方で言えば、愛と知の循環として成立すること。それは、いる、やってみる、続ける、と言うことの循環であること。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2 件のコメント

  • 確かに「続ける」という部分は、希薄と言うか、コツコツ続ければ、もっと凄いものになりそうなのにもったいないと感じることは正直あります。一方で、9年生までの時期は自分をより深く知るためにもある程度幅を広げて色々なことをやってみることの方が大切で「続ける」が多少に犠牲になってもやむを得ないのかなと思ったりもします。「続ける」については、意欲の面もありますが、続けるための技術的な側面も大きい印象があります。続ける意欲があっても続け方(実行プランの立て方と言ってもいいかもしれないですが)の知識が不足しているという視点もあるのではないかと思います。

    • 反応、ありがとうございます!

      >9年生までの時期は自分をより深く知るためにもある程度幅を広げて色々なことをやってみることの方が大切で「続ける」が多少に犠牲になってもやむを得ない

      というところは、僕と考えが違っていそうですね。一般に、小学校高学年から中学生頃になるとある程度メタ認知ができるようになり、ただの好悪感情を超えて価値を見出し、自分をコントロールできるようになります。個人学習の効果がどんどん高まってくるのもこの時期なので、この時期に続ける姿勢を学ぶことは大事だと考えています。もちろん、幅を広げることは大事ですが、それが単なる「時々の感情に任せてやりたいことをやってみた」の繰り返しにならないよう、続ける価値を知ることも、同じくらい大切だと考えます。

      続ける(自律的に学ぶ、遂行する)ための技術・知識の不足については、同感です。それで、今年の56年生は、漢字テストを通して、記憶が必要な学習の基本的方法、目標の立て方、実行とそのふりかえりなどを学ぶことに主眼をおいています。