授業でどう使う? 時事的なネタ

授業で時事的な話題を使うと生徒の反応は良くなる。その一方でそれに頼ってしまうと根本的なところを見失う危険も。授業で時事的なネタを取り扱うことの功罪について書いてみた。いざ書いたら典型的なDiscovery Writing(発見するための書き物)で、あまりまとまっていないのだけど、このままで投稿してしまおう。

目次

オリンピックやパラリンピックを受けて

いま、エンハンスメントを話題にしてパラグラフ・ライティングの書き方を学ぶ授業をやっている。「エンハンスメント」とは、「健康の回復と維持という医療の目的を超えて、能力や性質の「改善」を目指して人間の心身に医学的に介入すること」(加藤尚武編『応用倫理学事典』)だ。筋力などの運動能力を向上するドーピング、知的能力を向上するスマートドラッグ、望ましい形質を子に与えようとする遺伝子ドーピングなどがその事例。こういう倫理的な問題は意見が割れやすいので意見文を書く練習にはもってこい。

もっとも、国語の授業は倫理の授業ではない。主目的はあくまでパラグラフ・ライティングの書き方の習得にあるので、その題材としてこの内容を取り扱うけど、「このテーマに興味を持てない人は自己申告で別テーマで書いても良いよ」と言っている。

なんでエンハンスメントを題材に?というとオリンピックやパラリンピックが身近な時期で、事例としてドーピングを取り上げるのに良かったから。授業でもロシア選手団の組織的ドーピング問題に始まり、そもそもなぜドーピングがいけないとされているのか(もちろんルール違反だからいけないのだけど、なぜルール違反にすべきなのか)という根拠や、それに対する反論・再反論を考えたりと、僕の授業にしては新聞記事を多く取り上げながら時事的要素を強くした。例えば先週は、

  1. ドーピング
  2. 良い記録を出すために改良された義足
  3. それを着ると高記録が出るスピード社の水着
  4. スポーツ選手が成績を上げる目的で行うレーシック手術

など、ドーピングに似ている他の事例も新聞記事で紹介し、パラリンピックの記録がオリンピックを上回ることがあることや、義足の技術の進展にも触れながら、「どれに違和感を覚えるか」「どこまでなら許容できるのか」「その線引きとなる根拠は何なのか」を各自で考えてもらい、普段はあまり意識しない自分の感覚的な判断基準を言語化した後で交流する授業をやっている。

時事的なネタを取り扱う功罪

さて、今の所、授業自体の手応えは悪くないのだけど、こういう「時事的なネタ」を授業で取り扱うことについては、正直なところ功罪があると感じている。

生徒の関心は高い

「功」は何と言っても生徒の関心が高いことだ。「パラリンピックのニュースを見てこの授業を思い出した」とわざわざ言ってくれる生徒もいて、関心は持ってくれているのかなと思う。これは、学校で学んでいることと現実の生活の結びつきを実感できるのだから、ある意味では当たり前のことである。僕はこの授業以外でも過去に何度か時事的なネタを放り込んでいったことがあるけど、そういう時、真剣に反応してくれる生徒の数はやはり多い気がする。

また、僕の経験上、生徒は結構そういう時事的な問題に関する「一個人としての先生の意見」を聞きたがる。特に、意見が分かれるような政治的な問題について、僕たちが「一人の大人」としてどう考えているのかという点に、興味を持つ生徒は意外に数多い。もちろん「興味を持つ」は「賛成する」と同意ではないし、当然ながら教師の意見の押し付けはとても嫌がるのだけど、「興味を持つ」生徒は少なくない。きっと、そういうことを表明する大人が周囲には少ないのだろうし、普段「教科」の皮を被っている目の前の大人が、時事的問題についてどんな別の側面を見せるのか、という興味もそこにはあるだろう。時事的問題を授業で話題にすることには、そういう効果もある。

「コンテンツの魅力」が見えなくするもの

一方の「罪」の第一は、時事的なネタが持つコンテンツの魅力に、(えてして僕自身が)やられがちなことだ。「あ、これ取り扱いたい」と強く思う話題に出会うと、授業としての目的やそのコンテンツの教材としての質の検討が不十分なまま、その思いで突っ走ってしまう。その結果、授業としてはあまり練られていないものになりがち。でもまあ、そういう授業も魅力的、と僕などは言い訳まじりに思ってしまうのだけど(この辺は若い頃から成長していない)。

第二に、それよりも深刻な問題は、教師の仕事が「面白いコンテンツ探し」だと教師自身が勘違いしてしまいがちなところだろう。実は僕は元々、そういう観点で国語教師のキャリアをスタートさせた。面白い内容のトピック、面白い教材探し、面白い授業の組み立て、学期や学年を見通した配列…。そうやって、面白いコンテンツを組み立てることが重要な仕事だと思ってきた。

コンテンツを精選して繰り返すアトウェルの授業

別に今もその考えを否定するつもりもないけれど、一方で、例えばナンシー・アトウェルのライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップは、「教師が面白いコンテンツを考えて生徒に与え続ける授業」とはまるで異なる授業だ。彼女の学校の授業は、静かで地味で、大切なことを精選して淡々と繰り返していく。ルーティーンを大切にして、目新しいトピックを放り込むようなことはしない。本当に力がつくのはそういう授業なのかもしれない、とすら思う。せっかく彼女の学校を見学したのに、僕は何をやってるんだろう。

[ITM]僕たちがアトウェルから学べる8つのこと

2015.06.15

[ITM初版]書く技術を教える時のたった1つのポイント

2016.04.03

アトウェルの学校見学レポート(2) どんな授業なの?

2016.04.17

授業で時事的話題を取り上げるべき時は?

時事的な話題を取り上げた、面白いコンテンツの授業。その魅力は間違いなくある。否定するつもりもない。でも、今の僕に必要なのは、むしろその魅力に背を向ける勇気なのかもしれない

もしそれでも時事的な話題を授業で時間を割いて取り上げるとしたら、それは「授業のネタ」としてではなく、「一人の人間としてどうしても扱いたくなった話題」「同じ市民として共有すべき、僕たちの社会全体に関わる話題」なのではないか。

北海道の公立中学校教師の石川晋さんは、自分の授業から脱線して、しばしば教室や学級通信でば時事的で政治的な話題に触れるそうだ。彼のような時事的問題の取り扱い方が、本当は一番良いのかもしれない。

[読書]肩の力を抜いた闘いの記録。石川晋『学校でしなやかに生きるということ』

2016.07.17

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