木曜日、久しぶりに石川晋さんに授業を見てもらった。僕にとっては突然の来訪で驚いたのだけど(笑)、晋さん曰く、本当は同僚の井上太智さん(風越では「たいち」)のばん走にやってきたのだけど、たいちのはからいで、他のスタッフの授業を見ることになり、甲斐利恵子先生(風越では「りんちゃん」)と僕の国語の授業を見てくれたようだ。今日はその振り返りエントリ。
目次
ショートショート書き出し選手権
この日は「作家の時間」で、ショートショートの「書き出し選手権」をする日。このショートショートの単元は、9月初旬にスタート。実はブログには書きそびれたけど、最初にショートショート作家の田丸雅智さんによるzoomレクチャー「ショートショート創作講座」を、軽井沢町にある全小学校(軽井沢西部小、東部小、中部小、風越学園)の約500名が受ける、という一大イベントがあったのだ。
その後、授業展開を考えた時に、いつものように読み合って「宝探し」(相手の文章の良いところ探し)をすると「オチが面白い」系の感想ばかりになりそうだったので、今回は「書き出し」という一つに絞って授業をすることに。晋さんがやってきた木曜は、ちょうど一人一人の書き出しを集めて人気投票をして、自分の好きな書き出しを選んで鑑賞文を書く回だった。
「読む子と読まない子がいていいと思ってる」
授業が始まると、最初はいつものようにトランプで決めた順番で輪になって、子どもたち自作の漢字クイズをみんなで解く。その後はみんなの書き出し作品を集めたプリントを配って、書き出しを一つずつ音読しようとした。ただ、たまたま最初になった子が「読みたくない」と言い出して、あらあらと思って僕が代読した。すると、その後も「読みたくない」子が予想外に出てくる。20人ちょっとのクラスで、6、7人はいたと思う。「こういう流れができちゃったね」と僕は苦笑して、その都度自分で読んでいった。
この時僕が考えていたのは、自分の失敗だなあということだった。元々僕は音読を盛んにやっているわけでもなく、音読経験の浅い子たちがサークルになってみんなの前で一人で読むのは相当に精神的ハードルが高い。まして、プリントになっているのは手書きではなくパソコンで印字された書き出し。きっと読めない漢字もかなり混ざっていたのだろう。あまり深く考えずにサークルで読んじゃって失敗したなと思ってやっていた。
ただ、あとで聞くと、晋さんにはこの場面が面白かったらしい。「もともと僕は、読む子と読まない子がいていいと思ってるから」と言った。ある日には読むけど、次の日には読まない。そうやって、読む子と読まない子が混ざっているのが自然。そういう捉え方は、いかにも晋さんらしい。だから、あすこまさんの対応もあれでいいと思った、と言っていた。
「距離感が良くなった」
この日の授業後、もともと一緒にウクレレをやる予定だった3年生の子たちの相手をしながら、晋さんと少し話をした。まず晋さんが指摘してくれたのは、前に晋さんが見学しにきた筑駒時代と比べて、子どもとの距離感が良くなったこと。どう良くなったのか具体的に聞くのを忘れてしまったのだが、これは、いま受け持っている小学校高学年への対応もある程度できている、ということなのだろう。小学生への対応は、もともと高校国語科教員気質である自分が苦慮している点でもあるので、これは素直に嬉しく、前向きに受け取った。
「教えたいことがある」のが課題
そして、このあと指摘された課題が面白かった。「教えたいことがある」のが僕の課題だという。この日、僕は子どもたちが「書き出し」の鑑賞文を書く活動を設定して、そのために書き出しを分析する視点を次のように書き添えた原稿用紙を用意して、さらに裏には僕が書いた書き出しの鑑賞文の例も用意していた。
- 私が興味をひかれたのは〜
- 〜という表現が目新しくて
- 〜という謎が提示されていて
- 〜という情報が説明されていて
- 〜という設定にインパクトがあって
- 〜という描写が、….という印象を読者に与えて
- 語り手の〜という性格が伝わってきて
- 一文の長さが〜
- 読んだ時のリズムが〜
子どもたちは、他の子の書き出しから気に入ったものを一つ選び、この視点を参考にしてその鑑賞文を書くのだ。晋さんは「これは甲斐さんもだけど、あすこまさんにも、教えたいことがある。相手が小学生であってもここまでは到達してほしい、というラインがあるじゃない? でもそうすると、そこに行けない子は当然出てくるわけだよ」。この晋さんの言葉は、そういう子への対応を教師が個別にするのではなく(それでは目立ってしまうし、国語が苦手な子はますます嫌になるだろう)、どんなふうに考えてそもそもの課題や活動を設計するか、という指摘なのかもしれない。
降りていくタイプとついていくタイプ
自分の授業が傾向として「勉強のできる子向け」になってしまうという課題意識は、つい最近も下記のエントリで書いたばかり。今回の石川晋さんの指摘は、そこと繋がってくる話である。
単純化して書くと、教員には2つのタイプがある。第一は、「教えたい内容」から出発して、そこから児童生徒の側に「降りていく」タイプ。第二は、「児童生徒」の側から出発して、彼らが伸びていく方向についていくタイプだ。もちろん、この2つの要素は一人の人間の中で同居可能だ。ただ、もともと「自分が勉強したい、自分が面白いことを他の人にも分かち合いたい」僕は典型的な前者のタイプとして教員のキャリアを始めている。そして思うに、このタイプの根本的な弱点は、「教えたい内容」からの落差として子どもを見がちなので、「できない子」が「問題」化されてしまうことである。第二のタイプのように「ありのままでいいよ」と言ってあげにくい。一方、第二のタイプは、えてして「ありのまま」の容認に留まって、福祉の論理と教育の論理を取り違えがちではないか、という批判意識も僕にはある。だから、どっちが良いと言うつもりもないのだが、あえて言えば両方の視点を持っていたい。
僕は目下、おそらく第一のタイプの立場から、第二のタイプの見方を学んでいる最中なのだ。晋さんの言う「教えたいことがある」という僕の「課題」は、第一のタイプの教員が持つ限界でもあり、これから超えていかなくてはいけないところなのだろう。そのためには第二のタイプの教員のように、一度「児童生徒の側」から出発する意識を持つ必要がある。
例えば、ちょうど今週、「読書家の時間」のペア読書で、読むのが得意でない子同士のペアにどう関わればいいのか、自分でも迷って担任団の木村彰宏さん(あっきー)に相談したことがある。あっきーは、「何を目標にするかですけど」と前置きして、「この二人が本当に無茶苦茶語れるものから始めることですかね」と提案してくれた。今回のペア読書では、僕が選んだ15冊の候補からペアで読む本を選んでもらっていたんだけど、この2人にはそれは合わないとなれば、ひとまずマンガでもなんでも、この二人が楽しく語れるものから出発する方法が確かにあるのだ。言われるまでそんなシンプルなことに気づかないなんて、自分にはまだまだ「子どもの側から出発する」意識が足りてないってことなんだろうな。
少しずつ、進んでいるかな
さて、下記のブログエントリによれば、僕が以前に石川さんに授業を見てもらったのは、2018年5月のことらしい。これ、今読み直して、個人的にはとても面白かった。
今回「良くなった」と言われた児童・生徒との距離感の話、ここでも既に出ている。そして、僕のカンファランスが過剰である話も。さらに、このエントリでも「読者共同体っぽくなればいい」という願望が最後に書かれているが、今の僕はこの時よりもはるかに「読み手・書き手としての共同体」を育てることに自覚的に取り組んでいるし、集団の力も使おうとしている。要するに、今の僕の課題意識がこの時点でかなり出てきているのだ。そして、過去のエントリをそのように読めるということは、僕が少しずつでも進んでいるということ。ここは素直にそう受け止めて、これからも前に進んでいきたいな。
追記)石川さんの授業訪問記
関連エントリ紹介
石川晋さんと一緒に、甲斐利恵子先生の授業を見た時の記録。今読み直しても、この2人と自分のレベル差に軽く絶望する感じがある….笑
こちらは晋さんと井上太智さん(同僚の「たいち」)の授業を見にいった時の記録。授業を見るイロハを教えてもらった回。考えてみると、甲斐先生もたいちも今は同僚なのがすごい縁だな…