授業が始まって2週間。自分の興味から授業を作る弱みも実感しつつ、試行錯誤中….。

今年は自分の授業について、言葉の単純な意味で「反省」することが多い。率直にいうと自分はそこそこ「頑張ってる」気持ちがどこかに、いや、だいぶあったんだけど、実は全然そんなことはなくて、本当に色々な環境で支えられてそう見えていただけなんだな、ということだ。今日はそれについてのエントリ。これを意識しながら、楽しく頑張っていきたいな。

サムネイル写真は、この夏に家族の一泊旅行の中でいった黒姫童話館の敷地。前任校時代の校外学習引率で行ったことはあるけど、中を自分のペースでじっくりみられたのは初めて。『からすのパンやさん』や『ふたりはともだち』のハンカチやクリアファイルを買い込んでしまいました(笑)

漢字クイズ、子どもたちに作ってもらったら…

最近では、こんな事があった。今年僕は山川晃史さんの講座の影響で、授業前に漢字のミニクイズをやっている。それを夏休み明け直後、コロナで学校に行けない時に、子どもたちにも問題を作ってもらうことにしたのだ。その方が楽しくできるし、毎回その問題を作った子に小さなスポットライトを当てられるな、と思って、小さな工夫のつもりだった。

漢字学習のゴールは何か?山川晃史さんの漢字ゲーム講座@川崎国語同好会に参加して

2022.02.12

授業前の漢字クイズ、はじめました。「楽しく」と「ちゃんと」の両立を目指そう。

2022.05.21

ただ、実際に作ってもらった問題をみると、やさしすぎたり、中には問題として成立しないものもあったり、で….。これって、それだけ自分がアセスメントができていない証拠だよなあと少し落ち込んでしまった。僕がいつも出す漢字クイズは、解ける子には「簡単!」と言われるので、ついこちらもちょっとひねって面白い問題をたまに出そうとしちゃうんだけど、そういう反応は一部の漢字が得意な子だけで、面白さも感じられずに置き去りにされていた子がきっとたくさんいたのだ。

余談だけど、問題を作ってもらうのはアセスメントの手段としてなかなかに有効だ。「漢字の足し算」クイズ(音符や意符などに分解された漢字のパーツを組み合わせるクイズ)で、実際にはできない分解の仕方をしている子もいて、漢字の「パーツ」という概念の理解があやふやなことがよくわかった。

「漢字クイズ」と「漢字ゲーム」の距離

漢字クイズで言うと、「クイズ」じゃダメなんだろう。いくら両隣の子と相談しあっていいとはいえ、結局は個人の「わかる/わからない」が結果を左右するクイズでは、勉強の得意な子とそうでない子が同時に楽しく学ぶことはできない。「漢字クイズ」と「漢字ゲーム」の距離は意外に遠い。「わかる/わからない」が前景化せず、誰もが楽しく漢字について学べる「漢字ゲーム」には、優劣が逆転したり、運の要素があったり、協力し合う楽しさがあったり、漢字力以外に結果を左右する要素が必要だ。

それで、金曜日は少しだけ授業計画に時間の余裕があったので、子ども作成の漢字クイズではなく、「教育エジソン」というウェブサイトにある漢字ゲーム「漢字の池」(PDF)をやってみた。そしたら、これがとても盛り上がった。チームでいくつ書けるかを競うものなので、個人の優劣があまり視覚化されず、全員で協力して制限時間内に書ける個数を多くしたのが良かったのだと思う。準備時間を設けたので、辞書で調べることも、作戦を立てる余地もある。本当は「クイズ」ではなく、こういう「ゲーム」の機会を増やしていくべきなのだ。

「自分の興味から」授業を作る弱み

この「漢字クイズ」の例に限らず、自分の授業コンテンツはどうしても「勉強ができる子向け」になってしまう自覚がある。もともと僕は「生徒の実態から」「生徒の興味から」ではなく「自分の興味から」授業を作るタイプであり、授業や教える事そのものよりも、教材研究をしている時間の方が好きなタイプだ。だから、自分の興味から授業を出発すると、どうしても子どもの実態とずれが出てくる場合がある。そういう素朴な、言ってしまえば素人的な体験的教育論から、まだ自分自身が抜け出せていないのだろう。

また、下記エントリで書いたように、母校、つまり「自分の興味や学力と生徒のそれが一致しやすい」幸運な環境に身を置いて、「生徒の実態にどう合わせるか」をあまり考えずに「コンテンツ一本勝負」でやってこられたことで、それはそれは楽しい時間を過ごした一方、自分の教師としての力量形成が、教材研究という特定の分野に偏ってしまったこともあるのだろう。まだまだ子どもの実態をよく見る力が足りないな、と思う。

[読書]これは詩を書くことと一緒。岩下修『イラスト図解:AさせたいならBと言え』

2022.08.16

ペア読書で見える子どもたちの姿

先週から始まったばかりの読書家の時間の「ペア読書」を通じても、思うことがある。今回のペア読書は「本を通して人と知り合う、人を通して本を深める」とキャッチコピーに、元々仲が良いペアは、二人で本の世界を楽しんで読み深めてほしいし、そうでないペアは、共同作業を通じて少しでもお互い知り合ってほしいな、と思っていた。ルールは、「読むのは家で読んできて、学校では、週に1回、制作物を二人で作る」だけ。これは『改訂版 読書家の時間』の編著者・冨田さんに聞いたやり方そのままだ。とにかく楽しくやろう、を強調している。

これも、いざやってみると興味深い。普段接点のあまりない異学年・異性ペアで、一方が頑張ってコミュニケーション撮ろうとしていたり、同じ学年の同性同士でも動き出すまで時間がかかったり、という子ども同士の関係性のこと。元々読むのが好きな子たちは疑問を出し合って内容について話している一方、そうでない子たちは、絵を描いたりして、一見「読む力」とはやや縁遠いことをやっていること。でももちろん、これもまた彼らなりの本への接近の仕方なのだろうこと。こういう、ペア読書で見える子どもたちの関係性や、読む力の実態に、これまであまり気づいてこなかったなあと思う。

これも余談になるが、読書家の時間はアウトプットがないからアセスメントがついカンファランス頼みになってしまう。けれど、今回のペア読書のように、週1回アウトプット(制作物)を共同で作ってもらうのは、アセスメントの観点からも悪くない。

コロナの隔離期間が終わり、夏休み明けの国語の授業が始まって5、6回。そんな反省を抱えながら、来週からの授業準備をしている。もちろん、自分自身へのコンテンツへの興味から授業を作れるのは、高校国語科教員的な自分の強みでもあるので、それを捨てるつもりは全くない。けれど、子どものアセスメントや、多様な学力の子どもたちが同時に学べる機会の保証について、もう少し頑張っていきたいな。そんなふうに、結構前向きに思ってる二学期の序盤でした。

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