軽井沢風越学園、4月14日・15日に「はじまりの日」を迎えて、いよいよ開校しました。学校のあれこれについては、公式サイトで校長のごりさん(岩瀬直樹)はじめ、スタッフのみんながかなり頑張って書いてくれてるので、ここではあくまで自分の備忘録として書いておきます。
僕にとっての「はじまりの日」
去年から小学生とも接点を持つようになって、小学校と高校の先生の違いにも目を向けるようになった。で、これは率直な自己評価として、僕には小学校の先生の適性はあまりないな、とは思っている。一番の理由として、やはり小学校の頃は、学識があるとか教科の専門性があるという大人より、子どもに無条件の関心と愛情を注げる大人の方が大事だろうと思うからだ。愛情を注いで安心できる場を作ることって、特に子どもが幼いうちは必要だと思うけど、あいにく僕にはそういう方向の素養が乏しい。というか、そもそも幼児や小学生が可愛いという感情が自然には起こらない。だから「子どもに会えないのが寂しい」「はじまりの日に子どもに会えて嬉しかった!」「元気をもらえた!」という周囲のスタッフが、正直なところとても眩しかった。僕が最近一番嬉しかったのは、この週末に久しぶりに本を5冊読めたこと。そんな自分がここで一体何ができるのだろう、そりゃあ、子どもだってその保護者だって、読書や勉強よりも、自分や我が子を好きでいてくれる人の方が良いだろう….。
…という本人としてはそれなりに深刻な気持ちを、週末に石川晋さんにぽろっと話したところ、「あすこまさんは、子どもが好きじゃないんじゃなくて、子ども扱いしないだけなんじゃないか」と半分フォローのようなことを言ってくれた。なるほど、これはたしかにそういう一面があって、僕は子どもを子ども扱いしない(というか、「子ども」と呼ぶのにも本当は抵抗があって、「生徒」と役割名で呼びたいのだけど、役割名で呼ぶことの弊害(=関係の固定化)もわかるし、何より風越では「園児・児童・生徒」が混ざって面倒なので結局「子ども」と呼んでしまう)。非言語情報の読み取りが苦手な代わりに、言語で明文化された個人の権利はきっちり尊重するタイプなので、子どもの権利条約のことも気にかけていた。教員の仕事は、どうあがいても「教育目的に沿った子どもの権利の制限」という側面を持つ。だから、どこまでなら子どもの権利を制限する権力の行使が正当化されるのか、という点はとても重要だ。その分かりやすい線引きラインが「大人に対してやったら失礼なことは生徒に対してもやらない」で、僕はこれを意識してきた結果、それが「子供扱いしない」ことになったのだと思う。
もちろん、前提として、小学校の先生は子ども大好きで愛情を持って接することができる方がいいと思う。でも、小学校の、特に高学年になってくると、子供扱いしてくれる人もだけど、子供扱いしてくれない人も必要かな(愛情がある=子供扱いする、ではないけれど、そうなりがちな傾向はある)。そう考えると、前任校で大切にしたことを守ったまま、ここで働けそうだ、と思えてくる。ちょっとありがたい晋さんの言葉だった。
読書生活をつくるサポートを始める
さて、そんな風越学園も、御多分に洩れず、しばらくは校舎に入れない状態が続く。当面はGW明けまでだけど、もしかしたらその先も…という心配はしている。zoomやGoogle Classroomなど、盛んに使われているツールを使っての活動となりそうだけど、これはなかなかチャレンジングで、面白い課題だ。これまで学校でやってきたことを前提として、それを不十分ながらも再現しようとするアプローチでは、無理だろうな…そんな気がする。特に、「場作り」「関係性作り」に関する所与の条件が決定的に異なっているからだ。「学校は〇〇をするところだ」「〇〇するためには〇〇しなくてはいけない」などの自分たちの常識を、もう一度見直さざるを得ないだろう。
風越学園でも、いろいろなスタッフがそれぞれに考えて動き出しているのだけど、僕が興味があるのはやはり読むことだ。学校に行けないで時間を持て余している今は、子どもが自分で読書生活を作るチャンス。公共図書館が閉まっている以上、風越のライブラリーの本を使って、彼らが読書生活を組み立てるサポートができないか。そう思って、図書館スタッフと一緒に、風越のライブラリーの本を定期的に家庭に渡す「ブックボックス」を始めている。試験的にオンライン・ブッククラブも開始してて、こういう動きから、子どもたちが家にいながら読書生活をつくる支援を始めていくつもりだ。別に、今の時期は「オンラインで」学ぶ時期ではない。オンラインはあくまで窓口。風越のライブラリーにある本をフルに使って、彼らが自立した読み手になっていく支えができたらと思っている。