授業の構造を見ること、声の力にどう向き合うか….甲斐先生の模擬授業で考えたこと。

石川晋さんの来訪の他に、今週は書きたいことがもう一つ。14日の水曜日に軽井沢町の教職員合同研修があった。軽井沢の町立小学校3校(西部小・東部小・中部小)と、軽井沢中学校、そして風越学園の5校の合同研修である。僕は全体の運営に関わる立場で、忙しい中ではあるけれど、他校の志ある人と一緒に新しい取り組みをやるのは面白い経験でもある。合同研修は、テーマごとにいくつかの部会に分かれて、教職員はそこから選んで参加する。僕は「ことば」部会の担当者でもあり、今回は甲斐利恵子先生(風越では「りんちゃん」)に模擬授業をお願いした。同じ学校にいるとは言っても、授業をしている時間もほぼ被るので、甲斐先生の授業を見る/体験できる機会は意外にない。個人的にも楽しみな機会だった。それについてのエントリを書く。

目次

甲斐先生の「ダイコンは大きな根?」模擬授業

今回は中1の説明文教材、稲垣栄洋「ダイコンは大きな根?」を使っての、段落の役割を考える模擬授業。甲斐先生が公立中時代からされていた実践で、僕も赤坂中での甲斐先生の授業に通っていた時期に、授業そのものは見なかったが、壁に貼られた資料を見たことがある。「導入」「呼びかけ」「問題提起」「説明」「解説」「根拠」「例示」「引用」「まとめ」「主張」という段落の10の役割の選択肢から、この説明文の段落の役割を議論するものだ。

赤坂中で感じていた違和感

実は、赤坂中でこの実践の貼り紙を見た時、僕にはけっこうな違和感があった。想像つく人にはつくと思うが、このカテゴリ分けが全然「漏れなく、ダブりなく」になってないからである。そもそも位相が違う語が並んでいる。呼びかけることや問題提起によって導入することもあれば、例示が根拠として機能することもある。「説明」「解説」の違いもよくわからない。とはいえ、まだ授業訪問を始めたばかりの時期だったので直接聞くのもはばかられ、そのままになっていた。ブログにも書いていない。

今回の模擬授業は、改めてその違和感に向き合う機会でもあった。甲斐先生はこの10の役割の名前だけ示すと、定義の説明を一切しない。ただ何度も暗唱させて覚えてもらおうとする(後述するけど、ここは自分ではやらない方法なのでとても面白かった)。そしてその上で、「ダイコンは大きな根?」の段落ごとの役割をグループになって僕らに考えてもらう、という展開だった。

この段階で、僕には、例の赤坂中で感じた違和感があり、「実際はこんな単純じゃないけど、甲斐先生が答えさせたいのはこれかな」という気持ちでとりあえず選んでいく。その後、グループで段落の役割を発表する段階になってもその違和感はなかなか解消されないのだが、ただ、活動がひと段落して甲斐先生が「授業モード」から「意図解説モード」に切り替わって次の話をしたところで、「ああ、なるほど」と思う瞬間があった。ここが個人的な今日のハイライト。

この授業の本当の目的は…

甲斐先生曰く、この授業は「この段落の役割はこれですよ、ということを理解してもらう授業ではない」のだという。いや、それも目的の一つではあるだろうが、それ以上に「この段落の役割は何かを議論する中で、何度も「呼びかけ」「問題提起」「解説」などの語彙を口にして、使って、それによってこれらの学習語彙を体得することが目的なのだという。

そこまで聞いてやっと「ああ、それならわかる」と納得した。それが目的なら、カテゴリ分けが厳密かどうかは(少なくとも甲斐先生にとっては)大した問題ではない。いや、むしろ曖昧な方が、議論が白熱して、その学習語彙を口にしたり、意味を辞書で調べたり、自分なりのこの言葉への通路を開拓する機会は増えるだろう。事前にこれらの語の定義を教師が解説しないことも、その目的なら当然のことである。そうして、僕の中の「このカテゴリわけ、おかしくない?」に起因する違和感は、大部分が氷解した。

授業の仕組みを「深く」見ること

石川晋さんがやってきたのは、この模擬授業があった翌日のこと。晋さんは僕の授業についての話のあと、「甲斐さんの授業は相変わらず絶品だね」と、僕の見学の1コマ前に見た甲斐さんの授業についての感想も教えてくれた。僕自身も、甲斐先生の授業を十分に良く見られてない自覚があるので、いくつか質問もした。

そのやりとりも踏まえて、水曜日の模擬授業を、いまふりかえってみたい。大事なことの一つは、甲斐先生のような優れた先達の授業には、教師の指示や説明ではなく授業の活動の中に意図が埋め込まれている、ということだ。これは、甲斐先生の授業を観察するときに、僕が持たないといけない視点だろうと思う。表面的な「教師の指示-生徒の活動」のもう一段奥にある教師の信念に裏打ちされたデザインが授業にどう埋め込まれ、生徒の動きにどう影響しているか。甲斐先生が同僚である間に、石川さんの目でその授業が見られたら、僕もだいぶマシになるのではないか、と思う。

「身体か、理屈か」

大事なことのもう一つは、そうだとしても現実の僕は、その甲斐先生の授業の仕組みを模擬授業中に汲むことはできず、腑に落ちないまま活動していて、解説モードの時に言葉で解説されて初めて納得できた、という事実である。僕の納得には言葉が必要なのだ。ちょっと単純な図式化になるけれど、これは、僕と甲斐先生のそもそものタイプの違いもあるなと感じる。

甲斐先生は意外に体育会系というか「理屈じゃない、体で覚える」派なところがある。この模擬授業の最初に段落の10の役割を暗唱したことといい、古典の授業での暗唱といい、「頭で理解する」よりも「とにかく言葉を唱えることで体に染み込ませる」ことを優先する。甲斐先生の考える、豊かな語彙の使い手である「言語生活者」になるには、その方法が一番良いと判断されてのことだろう。身体感覚を大事にされている。

一方の僕はやはり理屈や言語化が先に来る人だ(このブログのように、書きながら自分の思考を作っているところなんかは典型的だ)。だから「ダイコンは大きな根?」の授業でも、最初の10の役割のカテゴリ分けに疑問を感じると、どうしてもそれに引きずられてしまう。了見の狭い中学生の頃の僕が仮に甲斐先生の授業を受けたとして、最初に感じたその違和感のまま段落の役割を選ぶ活動に入ると、おそらく「定義が曖昧なんだから選んでも意味ないじゃん」「なんでこんなことやらされるんだろう」と不満が溜まっていたと思う(だから、僕は授業者としてもこの甲斐先生の実践を追試する気にはあまりなれていない)。そういう生徒に甲斐先生がどう対応するのか、きっとこれまでもそういうタイプの生徒を相手にしてきただろうから、聞いてみたいな。

音読とプロジェクト・アドベンチャー

ここからは自分の話になる。声に出して音読・暗唱するなど、つまり児童生徒の身体感覚に訴えるやり方は、授業者としての僕の弱点でもある。音読や暗唱自体が嫌いなわけでは全然ない。むしろ僕はいくつもの詩を暗唱しているし、音読も好きだ(上田敏訳のボードレール「薄暮の曲」とか、白秋の「邪宗門秘曲」とか、ああいう音楽的な詩を声に出して読むのが大好きです)。

ただ、指導という場面になると、特にクラス全員での暗唱・音読は、合唱と同じく、例えば詩の朗読が戦時中に国民統合に利用された事例とかがふっと頭に浮かんじゃう。有効性とは別に、というより有効なのがある程度わかるからこそ、そこに気持ち悪さを感じて手が出しにくいのだ。参加者があっという間に集団で酔ってしまう声の力には、どこか警戒感を持ってしまう

この辺は、プロジェクト・アドベンチャーへの忌避感と、根っこでは繋がっている気がする。自分には、おそらく理性的個人であることをよしとする価値観が根っこにあって(こう書くとえらく西洋的な近代人に見えちゃうけど、実際はそんな立派でもないんだ….)、それ故に集団を作り上げる力に対して、自分の個人性が脅かされる警戒感があるのかもしれない。その点で、プロジェクト・アドベンチャーと音読はどちらも僕の「苦手なものリスト」に入っている。

こういう個人的な感情やパーソナリティが授業に影響することはなんら悪いことではない。授業とはそういうものだからだ。でも一方で、それが自分の幅の狭さにもなっているな、と思う。プロジェクト・アドベンチャーに関しては、今年、同じ学年団のあっきー(木村彰宏さん)やもとき(久保元城さん)が積極的に地道にPAをやってくれて、その効果も感じるし、苦手意識も薄らぎつつある。音読・暗唱も、効果はわかるだけに、甲斐先生に倣って一度踏み出してみることも必要かな、と思った。

授業を見る目、磨きたいなあ…

甲斐先生の模擬授業をうけたことをきっかけに、まとまらないことを書いた(まあ、僕のブログはもともとこういうとりとめもないことを記録するためにあるのだけど…)。授業を見る、参加することは、色々な考えをもたらしてくれる。授業の深いところにある狙い。自分の教師としてのタイプ。その根っこにあるもの。自分が克服したほうが良いもの。今回の模擬授業もありがたかった。

そして、こういう機会の一つひとつを大事にするためにも、自分が授業で起きていることを見る目を磨きたい。「石川晋メガネ」で授業を見たら、きっと今は見えない色々なものが見えてくるのだろうが、授業を見るのだって見る人間の価値観に左右されるのだから、結局は人の見方を教わりながら、それぞれの教室の文脈を大事にしながら、自分の見方を磨いていくしかない。授業者、空間構成や配置、個の生徒、生徒集団…。せっかく甲斐先生の授業が近くでやっているのだから、なんとか時間をつくって見に行って、色々と聞いて、考えて、力量を磨いていきたいな。

と、書きつつ実は今週の水曜日はお休みをもらって、10年ぶりくらいに石川晋さんの授業を見に行く予定なのだ。こちらもとても楽しみです。

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2 件のコメント

  • こんにちは。いつもツイート、ブログを楽しく読ませていただいています。初めてのコメントです。
    数年前、大学生の時に甲斐先生に教えていただいていたので、赤坂中での授業を拝見したり、「ダイコンは大きな根?」で段落の役割を考えて説明する授業を大学生の私たちで実践したりしてくださいました。(その時も暗唱から始まったことをこのブログを読んで思い出しました…!)
    当時私もあすこまさんと同様の疑問を抱き、私たち大学生も「え!?答えは!?」と困惑しました。しかしその後、「答えはなんでもいい。説明できれば全部正解。」という甲斐先生の言葉を聞いて、はっとしたことを覚えています。
    私もこの段落の役割を考える授業を実践してみたのですが、文章の内容だけでなくレトリックにも注目して読み話し合えていたので、文章と向き合い深く読む手段として有効だなと実感しました。
    しかし課題もあって、
    私も生徒もどうしても一つの正解を求めてしまいますし、あすこまさんのおっしゃる通り、釈然としない気持ちを抱く生徒もいることが難しいな…と思います…。

    突然のコメント失礼いたしました。
    これからもあすこまさんのツイートやブログから勉強させていただきますのでよろしくお願いします!

    (先ほどのコメント、本人しか見られないと思っていたので本名にしてしまいました。ブログから削除していただけるとありがたいです。すみません。)

    • 青山学院大学での授業に出席されていたのですね。同じような経験をされていた方がいて、共感しながら読みました。ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。