教育実践者と教育研究の良い関係ってどんなもの? 学会の課題研究の私的ふりかえり。

10/16(日)の全国大学国語教育学会2日目、課題研究「国語教育学を見つめ直し展望する②  国語科実践研究は何を、どのような枠組みで語るべきなのか」では、実践研究の担い手(研究者か、実践者か、研究者と実践者の共同か)を切り口として、教育実践者と教育研究者の関係があらためて議論された。この問題、僕にも身近な問題なので、あらためて振り返っておきたい。ただし、切り口は自分の立ち位置からなので、課題研究の本筋とはちょっと離れてるかも。

画像はこの秋に行った硫黄岳の山頂から、横岳や赤岳を臨んでいるところ。赤岩の頭に出たあたりから一気に視界が開ける爽快感は、なかなか忘れられるものではありません…!

目次

研究に対する実践者の立ち位置は3つ

大会当日の3名の登壇者の先生(それとは別に、大阪教育大学の住田勝先生がコーディネーターだった)の立ち位置は、次のようなものだった。

  1. 古賀洋一先生…教育実践研究の担い手が「研究者」である場合
  2. 土居正博先生…教育実践研究の担い手が「実践者自身」である場合
  3. 八田幸恵先生…教育実践研究の担い手が、「研究者」と「実践者」の共同である場合
八田先生は、僕のブログにも何度か登場する、敬愛する国語科教員の先達・渡邉久暢さんとの共同研究で、『教室における読みのカリキュラム設計』を書かれている。

この3種類の立ち位置を、実践者としての立場から書き換えてみると、実践者の研究への関わり方は、次の3種類がある。

  1. 研究者に研究のフィールドを提供する。
  2. 実践者自身も研究者であろうとする。
  3. 研究者と共同研究を進める。

現場の実践者である僕は、今回の課題研究を、実践者である自分の研究への関わり方という観点で聞いていた。だから、この3つの観点で考えたことを整理したい。

①研究者に研究のフィールドを提供する

最初のケースは、実践者はあくまで実践者の役割に徹して、研究者に研究のフィールドを提供するケースだ。このケースには色々なパターンがあるだろう。例えばかつて、ある国立の附属校教員とそれを指導する大学の研究者との間に、「研究者が提唱する理論を実践者が実践する(そしてうまくいかなかったら実践者のせいにされる)」関係があることを見聞きしたこともある。教育現場は大学の下請け工場ではないので、そのような「研究ー実践」の関係は望ましいものではない。

今回の課題研究で古賀先生が報告していたのは、もちろんそういう不幸な関係ではない。研究者が実践現場に参与し、授業を見ることから研究が始まるという構図だ。そして、研究者が、実践を整理して捉えるための理論を実践の場に提供したり、逆に実践の場からは、理論でとらえられない実践の事実を提供し、その理論の限界を、言い換えれば発展の可能性を提示する

こうした「理論と実践の往還」を実現するために、実践者の側にはどんな姿勢が必要だろう。まずは、研究者に対して常に場をひらくこと、そして実践の事実を見せること。研究者とのやりとりの中で理論の提供や言語化されたフィードバックを受け、自分の実践をブラッシュアップする姿勢も必要になる。

②実践者自身も研究者であろうとする

2つ目は、実践者自身も研究者であろうとするケース。今回登壇された土居正博先生は、明治図書から数々の本を出されている「インフルエンサー」的な現場実践者であると同時に、全国大学国語教育学会の『国語科教育』誌に論文が掲載されている研究者でもある。他にも、現職教員だが教職大学院に現職院生として入り直して論文を書いたり、博士論文を書いたりする実践者もいる。

その土居先生は、今回、実践者による研究の強みと弱みとして、以下の点をあげられていた。どれも納得の指摘だ。これに加えて、「時間のなさ」もあるだろう。特に土居先生のような、空きコマなどがほとんどない小学校の先生が研究に時間を費やすのは相当大変なはず。

  • 実践者による研究の「強み」
    •  「こうすればうまくいく」「いかない」という実感を手応えとしつつ研究を進められること。
    • 現場発ゆえに他の実践者の共感や納得を得やすく、実践が広がる可能性があること。
  • 実践者による研究の「困難」
    • 複雑な要素が絡む実践現場を、論理によって簡略化して語ろうとすることの難しさ。
    • 主観から出発するゆえに、客観的なデータをとることの難しさ。

③研究者と共同研究を進める

3つ目は、実践者が研究者と協力して共同研究を進めるケースである。課題研究の3人目の話題提供者・八田先生は、渡邉久暢さんの教室に2011-2013年の3年間通い、どう共同研究を進めていったかを話してくださったが、これがとても興味深かった。一年目は「渡邉国語教室」に通ってその理論化を行い、それを踏まえて、夏目漱石「こころ」論文実践のカリキュラムと評価を一緒に開発し、さらにそれをブラッシュアップさせていく。その過程は、下記の本の第二章にも掲載されている。

この③のケースが①と違うのは、単に研究者が実践者の授業を観察し、理論化し、フィードバックをするだけでなく、より踏み込んでカリキュラム開発に一緒に関わっている点だろうか。

さて、自分の場合はどうだろう?

実践者=研究者を目指しているわけではない

さて、この3つのケースを見渡してみて、自分の場合はどうだろうか。まず、②の「実践者自身も研究者であろうとする」を目指しているわけではないな、と思う。僕は以前は教育研究校(国立附属校)に勤務していたし、エクセター大学で修士号をとったコースも MSc Educational Researchだったので、「研究的実践者」風に見られることもあるし、かつてそれを目指した時期があったことは事実だ。でも、僕自身は、大学院留学を経て、実践者が同時に研究者である困難を強く感じるようになった。研究者か実践者か、どちらかにするほうが良い仕事ができる、と思ったのだ。

というのも、自分には当然ながら、教育実践者としてのバイアス・欲望・願い・偏った関心(たとえば、ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップへの関心)がある。自分の実践を論文に書くとは、そういうプレイヤーとしての自分を、書き手としての自分が、一定の距離を担保しつつ記述することである。これは、思っている以上に難しい。時に、自分の実践の「効果」を証明したい欲望に抗えずに都合の良い面だけを切り取ったり、逆に、実践に距離を取りすぎて自分の核を見失ったりすることもある。極めて優れた実践者が、論文を読んだら全然…というケースも少なくないのはそのためだろう。例えば作文教師としては超一流のドナルド・グレイブスも、作文教育研究者としては、自分の願望に都合の良いデータしか見られなかったのではないか。

また、僕らには現実的問題として質的研究や量的研究の手法についてきちんと学ぶ時間の余裕もない。僕のように教育研究について大学院でかじった程度の人間は、かえってステレオタイプな教育研究のイメージに引きずられがちだ。実際の研究はもっと自由なものなのだと思うのだけど、実践者が「論文っぽくする」ことを目指して自ら進んで「客観性」の枷にしばられてしまうことは、少なくないのではないか。

そういう考えから、今の僕は、非常な危険性を犯してまで実践者が一人で学術論文を書くことに労力をそそぐよりも、むしろ堂々と実践報告を書くほうが、実践の世界が豊かになる気がしている。実践を伝える方法は「論文」形式に限定されないのだから。

でも、だからこそ、実践者でありながら同時に研究者の道を進まれている土居さんのような方に対しては、自分にはできないことなので尊敬の念を抱く。実践者の書く論文の質は、しばしば研究者から「論文になっていない」と批判の対象になるが、そもそも自分の実践を論文にすること自体が困難なのだ。そう批判する研究者の側の「論文」概念こそが問われなくてはならないだろう。

教室に来てくれる研究者の存在は大きい

とすると、僕が希望するのは「①研究者に研究のフィールドを提供する」か「③研究者と共同研究を進める」の形になる。本当は「④関わらない」もあるのかもしれないが、その選択肢はない。というのも、筑駒時代から、僕の授業には勝田光先生(今は筑波大学。当時は東洋大学)が継続的に教室に来てくれて、そのメリットを感じ取っているからだ。

自分で授業の事実を記録し、まとめ、その意味について考える大変さを思うと、一緒にその作業をやってくれる人の存在はとても心強い。他の実践者同様、僕にも「言っていないけどやっている」ことや、「言っているけどやっていないこと」がたくさんある。そういう自分の見えない部分を可視化して言語化して、そこで何が起きているのか教えてくれるのは、勝田さんのような研究者だ。この存在が、僕が実践者として自分を振り返り、次に進むエネルギー源になる。ここまで一緒に2本の論文も書いた。研究のフレームワークの設計やデータの解釈も一緒に議論して、その中で自分の実践について発見することや、研究の方法について学ぶことも多かった。

ちなみに、勝田さんと書いた2本の論文はこれです。

  1. 勝田 光, 澤田 英輔, リーディング・ワークショップによる優れた読み手の育成――1時間の授業過程の分析――, 国語科教育, 2018, 84 巻, p. 58-66.
  2. Katsuta, H and Sawada, E (2021, March). Encouraging Independent Readers: Combining Reading Workshop and Textbook-Based Lessons in a Japanese High School Classroom. The Journal of Adolescent and Adult Literacy. 64(5), 563-573

僕と勝田さんの関係は、カリキュラム開発を一緒にやったというよりも、あくまで僕の実践をフィールドに一緒に論文を書いたので、③の「共同研究(共同での実践の開発)」というより①「研究のフィールドを提供する」に近い関係である。コロナが収まった風越学園にも僕の授業の観察にわざわざ長野県まで来てくれることになり、実は今週からそれがはじまったところ。これからこれからどんなフィードバックを貰えるのかが楽しみだ。

実践者は「選ばれる」対象なのか?

さて、最後に、ここまで書いて気になったこともある。それは、研究者に来てもらうには何より実践が魅力的でなくてはいけないのか? ということだ。もちろん、実践現場が研究者を選ぶ(講師として校内研究会などに招く)こともあるが、それは単発や複数回がせいぜいで、八田先生が渡邉久暢教室に毎週足繁く通い、実践の背景を深く見ていくような関わりではないはずである。

例えば八田先生が渡邉久暢教室を見て衝撃を受け、ここで何が起きているのか理解したいと思ったことが共同研究の本格的始まりだったように、実践現場は研究者にとって(なんらかの興味や問いを誘発する意味において)魅力的な存在である必要があるだろう。足繁く教室に通うには、それだけのものがないと行く気にならないのは当然だ。

では、この場合の「魅力」として大きいのは、授業者の実践の魅力なのだろうか。誰にだって、渡邉久暢教室や甲斐利恵子教室が魅力的であろうことは想像がつく。でももしそれが大きいのだとしたら、魅力的な授業ができる優れた実践者のみが研究者に「選ばれ」、多くの実践者は研究者に来てもらいたくてもできないことにならないか? 僕もまた、研究者に来てもらうには、彼らが魅力を感じる実践を行い続け「選ばれ」なくてはならないのだろうか? それは自分を苦しめないか?

と、書いてはみたけど、これはまあ、僕が研究者の実態や気持ちを知らないだけかな。教室でおきる出来事は多岐にわたるし、研究者の中には、アンテナ高く教室内のさまざまな出来事に興味を持つ人も少なくないはずだ。「この子はどういうふうに学んでいくんだろう」「なんでこの授業はいまいちうまくいかないんだろう」も研究的興味の出発点になりうるし、授業を見る面白さは実践の優劣と直接は関係はない。研究者は、どの現場であれ、そこにあるものを面白がってくれるはずである。そして、そうあってほしい。「選ぶー選ばれる」のような非対称性が出発点になったら、実践現場と研究者が対等な良い関係を長く続けることは、なかなか難しいことだろうから。

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