目標は「血まみれを避けること」? 課題の多い研究協議会のあり方

公開授業は教員にとって非常に緊張する場面のひとつ。「今日はいつも通りの授業をします」とは言うものの、わざわざ言う時点ですでにいつも通りではない。事後の研究協議会では、どんなことを言われるか緊張している。なんとかそこで叩かれ斬られ、血まみれになるのは避けたい…。そんな気持ちで協議会の時間を過ごしている人も少なくないのではないだろうか。

先日、立命館宇治中学校・高等学校の酒井淳平さんによる、福井県立若狭高校の渡邉久暢さんの授業の公開研究会についての記事を読んだ。今日はこの記事を元に、公開授業後の研究協議会のあり方について思うところを書いてみたい。

目次

授業研究会に指導助言は必要?

https://www.manabinoba.com/tsurezure/015666.html

渡邉さんの授業の公開研究会

福井県の渡邉さんの授業は、僕も2015年に見学したことがある。授業自体は下記リンク先に書いたけど、授業後の研究協議会のあり方もいいなあと思った。酒井さんが書かれたのとほぼ同じで、まずグループで授業について気づいたことを出し合い、付箋に疑問やコメントを書いて黒板に貼り、その中から渡邉さんが選んで答えていくというスタイルだった。このやり方は、よくある研究協議会のスタイルとは随分違う。

授業見学記@福井県立若狭高校

2015.05.14

「不幸な結果」を生みがちな研究協議会のスタイル

上のブログ記事で酒井さんも書かれているが、公開授業後の研究協議会は、えてして

  1. 前方に授業者、脇に助言講師がいて、それと向き合う形で参加者が座る
  2. 協議会の冒頭で、授業者が意図などを説明をする
  3. 参加者の中から挙手・質問があり、授業者がそれに答える
  4. 最後に助言講師がまとめて締めくくる

という展開になりがちだ。いや、他人事ではなくて僕の勤務校の(少なくとも国語科の)研究協議会はこういう形である。

で、この形は色々と欠陥が多いなあと思っている。主に指摘できるのは、以下のような点だ。

  1. 授業者とフロアの対立構図が出来上がる
  2. 質問者の発言や質問をコントロールできない
  3. 助言講師が「正解をいう人」のポジションになる

以下、それぞれについて見てみよう。

授業者とフロアの対立構図が出来上がる

一番良くないのは、フロアと授業者が向き合って対立構図になってしまうこと。こうなるとどうしても授業者は「防衛モード」に入ってしまい、「血まみれ」になるのを免れるのが協議会の目標になってしまう。結果として、このやり取りから授業者が得られるものは「やれやれ、無事に乗り切った」という安堵感ばかり。これはもちろん授業者が悪いのではなく、そういう振る舞いをさせる協議会のやり方が悪いのです。

だから、まずは机と椅子の配置から工夫して、授業者と参加者の間の対立構図を作ってはいけない。

質問者の質問や発言をコントロールできない

また、挙手発言スタイルだと、質問者の質問や発言をコントロールできない。結果、全員の時間が、時にはとても些細な質問や、勘違いに基づいた発言に奪われてしまうのだ。「挙手をする」勇気もしくは図々しさのある人だけが全員の時間を奪う権利を持つのは、おかしい。そういう図々しさを持つ人の中には、「質問のふりをして要するに自分の経験や技術を話したいだけのベテラン」も一定数いるのだから、なおさらである。自説をとうとうと述べたい人は、僕のようにブログでもやればいいのだ。他の参加者の時間を勝手に奪ってはいけない。

やっかいな「厳しく批判してこそ本物」信仰の人

質問者のうちで、「当人に悪気はないのだけどやっかいなタイプ」が授業者を「叩く」「斬る」というスタンスで臨む人である。こういう人は「教員は授業をお互いに厳しく批判しあってこそ本物」という世界観を持っていて、その「本物」の定義を勝手に周囲に押しつけてくる。当人は研究熱心なのだけど、お互いを「叩く」「斬る」ことこそ「厳しくて」「誠実で」「本物の」授業研究だと思っている人は、そういうのが好きな人たちの内輪グループを超えることができない。「わかる人たち」の中に閉じてしまって、「批判を恐れる教師はダメだ」と「ダメな人たち」の文句を言っているだけである。でもそもそも、公衆の面前で「叩かれて」「斬られる」のはみんな基本的に嫌なのだから、仲良くなって信頼関係ができてから、内輪でやればいいのだ。初対面の授業者相手に公開の場でやることではない。SMプレイには信頼関係が不可欠ですよ。

とまあ、質問者の発言や質問を事前にコントロールできないと、色々なマイナスが生じる。事前に、「この質問や発言はみんなで聞く価値がある」「価値がない」ことをふるいわける仕組みが欲しい。みんなが気になること、聞きたいことをこそ聞くべきなのである。そのためにも、できれば、参加者みなに発言する機会が欲しい。

助言講師が「正解をいう人」のポジションになる

さらに、よくある「締めは助言講師で」というパターンも問題だ。最後に助言講師が「締めくくる」ことになると、しばしば助言講師は、当人の意に沿わず「正解を言う人」のポジションに押し上げられてしまう。特に助言講師に大学の先生が招かれた時に生じる悲劇については、以前にも下記エントリで書いた。

学校現場と研究の上手なつきあいかた:「正解」モデルを超えて

2016.03.21

このエントリを今読み返しても、やはりこの「助言講師=正解を言う人」モデルは良くないなあ、と思う。

自分の足元から、変えていかないと

とまあ、色々と書いてきたが、こういう弊害を乗り越える試みは実際に全国でいくつもあると思う。例えば福井の渡邉さんのところの研究協議会もその一つだ。また10月末には、(残念ながら文化祭で行けなかったけど)お茶の水女子大附属中で、澤本和子さんをお迎えして研究協議会代わりの「授業リフレクション」が行われたそうだ。参加された石川晋さんが、早速ご自身の学校でそれを試されている。

授業リフレクション(すぽんじのこころ)

http://suponjinokokoro.blog112.fc2.com/blog-entry-2953.html

こういうところから、僕の勤務校の研究協議会も変えていけたら、と思う。実は僕、どうやら勤務校で来年度に公開授業をやるスケジュールなのだ。何をやるかはまだ決まってないんだけど、せっかくだから、授業後の研究協議会のやり方の見直しを同僚たちに働きかけようと思っている。授業者として、「血まみれを避けるのが目標の研究協議会」にはしたくないしね…。

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