週1回水曜日、前期の活動に関わらせてもらうようになり、一ヶ月が過ぎた。まだ4、5回という短い間だけど、これまで中高生を相手にしてきた僕にとって、貴重な経験になるだろうなと思う。まだその貴重さを十分には実感できていないけど、この期間を振り返って考えたことをメモしておきたい。
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「非言語情報をキャッチする修行」はまだまだ…
そもそも自分が保育に行こうと思ったのは、下記エントリにも書いたけど、尊敬する元同僚の勧めがあったからだ。言語優位で表情や仕草などの情報をキャッチするのが苦手な僕に「あすこまさん、保育いいよ。まだ言葉で気持ちをうまく話せない子達だから」と勧めてくれた彼女が、表情や仕草をフル動員して相手の気持ちを考えざるを得ない自身の介護体験のことを話してくれたのが、大きなきっかけである。
だから、僕にとってこの保育体験の第一義は「非言語情報をキャッチする修行」なのだけれど、残念ながらこの方面での進歩はまだあまり感じられない。その日その日で保育スタッフが手薄なところに入るのだけど、結果としてたまたま会話がだいぶできる1・2年生を相手にする機会が多いこともあるし、そんなすぐにこちらのアンテナが育つわけでもないのだろう。時間をかけよう。
前期と後期の違いが大きい!
率直に言うと、今のところ一番に感じているのは、風越での前期(3歳~小2)と後期(小3~中2)の、あまりに大きな生活の違いだ。屋外での遊びと暮らしをカリキュラムの中心に置く前期と、屋内で国語・算数・テーマプロジェクトなどの「学び」を進めていく後期。この2つがあまりに違うのだ。幼稚園児と中学生が同じ生活をしていたら人間の発達的にもかえって不自然だから、ギャップがあること自体が悪いわけではないが、とにかく違うことを体感した。
もちろん、スタッフもそれはわかっていて、前期でも小1小2になれば屋内で落ち着いて学ぶ時間があるし、後期でも小3・4年のテーマプロジェクトは屋外で活動する。スタッフはお互いに接続を考えているのだけど、それでも、「小1ギャップ」ならぬ「小3ギャップ」がある気がする。このギャップを体感できたのが今の所の一番大きな収穫かな。
風越には、バックグラウンドも、そこから形成される考えも違うスタッフが多い。だから、前期のスタッフが後期の(できれば中学生の)授業づくりに加わったり、後期のスタッフが前期の保育に参加したりして、スタッフみんなでこのギャップを共有したいな、と思う(繰り返すが、違うこと自体は悪いことではない、と僕は思っている。接続がスムースであればいい)。こればかりは、保育・小学校・中学校の、それぞれの出身現場の経験と信念だけで動いても仕方ない。最初から最後までを見通すことが大事だ。
国語のタネが転がる朝の集い
朝9時を過ぎてから、保育では大きく2つのグループに分かれて「朝の集い」がある。僕はこの時間がけっこう好きだ。その日の進行をするスタッフの手遊び歌、「大きな歌」の風越版の替え歌、絵本の読み聞かせ。小さな子どもたちの間では言葉遊びがごく自然に発生して、どれもなんだか詩の授業の導入みたいに感じる。
GW前には風越ミーティングもあり、1・2年生たちが「飼っている生き物をGW中にどうするか」で議論を重ねていたこともあった。もちろん「遊びたい」とこぼす子も「世話するの嫌だし」という子もいる。彼らは大人よりも率直で、論理的思考もまだ発達していないから議論も噛み合ってなくて、それでも1時間くらい話をしていたのだから立派だと思う。この真剣さはなんだろう。これが国語の授業だったらホワイトボードに議論を整理して助けるところなんだけど、この日の僕は迷って、意見を求められるまで何も言わなかった。「あすこまはどう思ってるの?」と声をかけてくれた子がいて、そこで初めて自分の考えを伝えた。
こんな風に、保育スタッフが、暮らしと遊びの中で言葉の力を伸ばしたいというのはこのことなんだろうな、と肯定的に受け止める経験を重ねている。国語の学びのタネは、確かにこういうところにある。
自然の中で育つことの意味
自他共に認める超インドア派の僕が、一日屋外で前期の子たちと畑遊びをしたり、宝石(と彼らが読んでいる石)を探したり、森の中の「ひがしのくに」にお邪魔して一緒に穴を掘ったりしていると、もし僕が幼少期に風越のように森の中でずっと遊んで過ごしていたらどう成長したのだろう、と考えることもある。
僕は東京の教育熱心な家庭で育った、典型的な「もやしっ子エリート」な子どもだった。幼稚園から小学校中学年頃までに親が用意してくれた色々な習い事をし(覚えているのだけでも合計で6つあった…)、毎週のように図書館にも通っていた。おかげで勉強も楽しかったし教養を身につける機会もたくさんもらったけど、風越の子たちのように、毎日を自然の中で暮らす経験とは縁がないまま育った。
軽井沢で育つ子たちは、そんな僕よりも自然がよほど身近だ。いま5・6年生を受け持っている僕は、国語の授業の中で時々詩を読む。先日、蛙の詩人・草野心平の「春のうた」を読んで、「おおきなくもがうごいてくる」の「くも」が「雲」か「蜘蛛」かという話をしていた時のこと。昆虫&生き物博士の子が、「蛙の眼はこの位置にあるから…」と「蜘蛛」説を支持する一方で、「ああいいにおいだ」の匂いが、雨が近づていくる雨雲の匂いではないかという「雲」説の意見も出て、そのやりとりが僕には素晴らしく面白かった。
もちろん、フィクションの蛙と実際の蛙が同一である必要はないので、蛙の目の構造を知っていれば「正解」がわかるというものでもない。でも、この子たちは、「蛙から見える世界」を自分の経験に基づいて想像できるし、雨雲の「いい匂い」も感覚として共感できるのだ。僕には、それがない。入試問題で傍線が引かれて「どちらのくもか、理由をつけて説明しなさい」と聞かれたら、僕はおそらく彼らよりも理路整然と自分の考えをわかりやすい日本語で述べ、高得点を取れる子であっただろう。でも、この子たちのように自分が「蛙の身になって」考えることは絶対にできないと思う。
こういう場面に出会う時、風越で育つ子たちの可能性を感じる。蛙の低い姿勢から世界がどう見えるのか。雲をどんな風に眺め、蜘蛛をどう捉えるか。そういうことを自分の手足を通じて、感性を働かせて想像するベースの体験を、彼らはこの時期に豊かに積んでいるのだろう。他にも、前期の子たちは、生きものたちの小さな死に接することも多い。その度にスタッフが丁寧に死と向き合う時間を作ってくれている。これに限らず、自然の中で育つことには、豊かな可能性がたくさんある。
自分と人を大切にできる子ども
また、スタッフと前期の子たちのやりとりに気づかされることも多い。前期スタッフは、本当に一人一人の子どもをよくみて、それに応じて関わっている。
ある日のこと、子供同士が喧嘩になった時、仲裁に入ろうとした僕を、前期スタッフが止めてくれた。しばらく言い合いを見守ってから、ようやくその輪に入る。まず輪の中心にいる子に「どうしたい?」を聞く。その後で他の子にも「どうしたい?」を聞き、その中で、「◯◯がこうしたいように、他の子もこうしたいんだよ。じゃあ、どうすればいい?」と返していく。この「あなたはどうしたい?」をまず聞くことが、前期スタッフはとても多い。もちろん、子供の希望を全部認める訳でもないし、強く介入することもある。その濃淡はスタッフによっても違いそうだけど、それでも、まずは子どもに「どうしたい?」を聞く。
そういうスタッフの姿勢を間近で見ていると、風越で幼少期から育った子どもは、自分が大切にされていることを感じ、同じように人も「こうしたい」と自分とは少し違う意志を持っていることを感じ、それらを同時に尊重しないといけないことを学んで育つんだろうな、と思う。
これは、後期になって「学び」にステージが進む際にもとても大事なことだ。これまで思春期以降の子どもたちと接してきて、いわゆる「難しい生徒」の中には、傷ついている子、自信がない子、他人との優劣比較の中でしか自分を理解できない子が少なくないことを感じてきた。自分を守るために、傷つけられる前に他人を傷つけようとする子。他人と比較して優位に立てることにだけ頑張ろうとする子。「できる/できない」結果にしか目がいかず、「できる」ことばかり繰り返そうとする子。「劣った」結果を手にするのに疲れてそもそも挑戦をあきらめてしまう子…。特に、中学受験という優劣を競う場に身を置く東京の子には、そういう傷つき方をした子が少なくないのではないか。
でも、風越の前期スタッフに見守られて育った子たちは、そういう形で自己を否定されず、自分と人を尊重することの大切さを知って後期のステージに入ってこられるのではないか。そう感じられたのも、保育に参加して得られたことの一つだった。
学校と保育の違いも感じる…
一方で、「保育の延長で学校を考えるわけにはいかないな」と思うことも、正直言ってある。特に、制度上は「学校」にいる1・2年生のカリキュラムは簡単じゃない。大きいのは、学校には社会が要請する「学ぶべきこと」があり、学年が上がるにつれてその量が多くなってくることだ。これは、フリースクールではなく一条校(学校教育法で定められた「学校」)である以上、風越の子にも当然関係する問題である。
公教育が「社会化の装置」である以上、学校において、その時点の子どもの主観的幸福よりも「社会に参加するために学ぶべきこと」が優先されるケースは多々生じうる。大雑把に言えば「今のままのあなたでいいんだよ」を比較的強調するのが幼児期だとしたら、「今のままのあなたではいけないよ(もっと勉強しないといけないよ)」がそれに加わってくるのが学齢期であるだろう。この2つの言葉を同時に言うのは一見矛盾のようだが、学校の教員であることを引き受けるとは、そういう矛盾に身をさらすことでもある。
国語のカリキュラムとしての課題も…
また、こと「国語の授業」という観点から言うと、一日の多くを外で過ごすカリキュラムの難しさも感じる。特に気になるのは読み書きだ。「話す・聞く」と違って「読む・書く」は人間が生得的に持つ能力ではない。読む能力が家庭の蔵書量などの環境要因に強く影響されるのはそのためである。成長すれば自然にできるようになったりはしないので、屋外の暮らしや遊びの文脈の中で自然に学ぶのはどうしても難しい。
そして様々な研究結果が示唆するように、幼少期の子どもの読書量や読み聞かせ体験の量は、その後の学力にも大きく影響する。とにかく低学年のうちに本を読み浸る必要があるし、また、書き順を含めた書字の学習にも時間がかかる。小学校の1・2年時に、毎週9コマ(1日2コマ弱)も国語の授業を確保して、読み書きを教室という人工的な環境の中で学ぶのには、それなりの大きな理由があるのだ。せっかく中央にライブラリーがある風越の人工的な環境を、もう少し活かせたらいいなという思いもある(これも前期やライブラリーのスタッフがとっくに考えていることではあるのだけれど…)。
「野外で、暮らしの中で学ぶ」という前期カリキュラムが持つ良さと、将来に向けて必要な国語の力を身につけること。そのバランスをどう取るのかは、僕個人の、というより、風越学園の国語カリキュラムの大きな課題だろう。もうすでに動き出いる前期スタッフの思いを大事にしつつ、この1年間、僕も前期スタッフとのコミュニケーションの量を増やして、この課題にも一緒に取り組んでいきたいと思う。