ふーっ、なんとか生き延びた…。そう言いたくなる今週は、同時に色々なことを考え、学んだ週でもあった。今回のエントリは、日曜の朝にそれを忘れないように書き残したもの。未来の自分にちゃんと届け!
目次
「既存の学校システム」はよくできている…!
順調に問題だらけ。風越の校長の岩瀬さんがよく言う台詞が、なんども頭にうかぶ一週間だった。
今週に限らない。「学校」という制度ってほんとよくできているなあ!…とため息をつくことが、この春は何度もある。ゆったり広々とした空間、子どもたちが自分でやりたいことを決める「わたしをつくる」時間、チャイムが鳴らないこと…外から来たお客さんが「素敵ですねえ」と言ってくれる風越のあれやこれやが、校舎の中で日常を過ごしていると、つい「いやいやそれがね…」と言いたくなる要因にもなるのだ。
だから、風越の中でおきている問題に「対処」しようとすると、無意識のうちに「学校」的要素が増えていく。空間が広すぎてふらふらしちゃうから、四方に壁のある教室を使ったほうがいい。落ち着いて話を聞けるように、机も個別にして前に向けよう。なんならチャイムもあったほうがいいんじゃないか…。
話は、空間の構成にとどまらない。異学年のホームグループと学年ごとのラーニンググループが混在している風越は、一日の中で集団の単位が何度も入れ替わる、流動的なコミュニティ。でもそれだと、集団としてお互いの関係をつくりにくく、安心・安全な場もつくりにくい。じゃあ、基本的にずっと同じメンバーですごすといいんじゃない? スタッフも毎回入れ替わるよりは同じスタッフが見たほうが安心できるよね…という発想の一歩先には、もう普通の学校そのままの「固定教室での学級担任制」ができあがる。
ほんと、既存の学校システムは、ある意味で非常によくできていて、頑健なのだ。「普通の学校」のもつ力。なるほど、今までの自分はこういうシステムに支えられて授業をしていたんだな、としみじみとわかる。こういうのを全部気づかずに通り越して、教材研究頑張ってるって自分の功績のように思っていたり、『<学級>の歴史学』を読んで「学級制度なんてなくても良いのに」って思っていたわけね。若い、若すぎたね。自分の力を過信して、傲慢なんだよね。
忘れちゃいけない学校システムの課題
でも、しんどいときにはうっかり忘れがちだけど、既存の学校システムには、もちろん課題もたくさんあるのだった。特に小学校では、「担任の当たり外れ」なんて言われるほどの学級担任の影響力の大きさ(これの裏返しである、担任個人にのしかかるプレッシャーも)。同年齢だからこその、小さな差異の顕在化がもたらす人間関係のあつれき。ずっとひとつの教室で逃げ場がなく、教師の人権侵害や生徒同士のいじめにもつながりやすい閉塞感…。結局、「既存の学校がよくできている」のは、大過なく過ごしたい僕ら教員にとってだったりして、完璧なシステムではない。僕たちはそういう限界も感じたからこそ風越にいるわけだし、だからこそ、「色々な問題があるから」といってすぐにもとにもどるわけにはいかない。
感覚や思考を制御するアプローチと解放するアプローチ
また、別の問題もある。言い方は悪くなるが、「これまでの学校のやり方の長所」って、こどもが集中して授業を受けられるために、考えることや感じることを制御することで生まれているのだ。大人が時間割をあらかじめ決めてあげて、考えなくてよいようにする。チャイム音で授業のはじまりと終わりを知らせる。授業場所はなるべく一つに固定し、壁にも張り紙をたくさんし、前だけを見る机の向きにして、物を置く場所も決めてあげて…これらの、子どもが落ち着いて学べるためのさまざまな「学習支援」は、意地悪い言い方をすると、「子どもの感覚や思考を制御して授業に集中させるアプローチ」でもある。
このこと自体の善悪は文脈によるだろう。余計な負担や情報をとりのぞいたほうが集中しやすいというのは、大人でもそうだから、間違いなく効果はあるのだ。けれど、こと風越の場合、前期(幼〜小2まで)スタッフは子どもたちが「感覚を解放してたっぷり感じること」「自分で考えて決めること」に注力している。もし後期スタッフの僕たちが、自分の授業での問題を解決するために「感覚を制御すること」「教師が決めてあげること」にぶれていくと、前期と後期のギャップがどんどん大きくなるのは、火を見るより明らかだ。これは先週、保育に入っている日に前期スタッフのとっくんと話していて学んだことである。
そこに共通言語はあるか?
僕たちはどうしても自己の信念を優先してしまうし(そりゃそうだ)、なにか問題がおきるとつい自分の経験にひきよせて「解決」したくなる。でもそうすると、バックグラウンドの違うスタッフが集う風越では、学校としての軸がぶれる危険がある。一つの学校である以上、全体をつらぬく軸が必要なのは当然で、そこはぶらすべきではない。
「学校としての軸なんて、今さらそんな基本的なこと?」と思われるかもしれない。でも、そうなのだ。言葉で、「全体をつらぬく軸」とか「大切にしたいこと」を共有するのは、簡単にできる。ウェブサイトにも載っている。でも、大事なのはお題目ではなくて、僕たちが子どもたちと日常をともにするときの立ち居振る舞い。子どもたちを見ているとき、何か問題が起きたとき….僕たちの振る舞いの一つ一つが、子どもから見たときのスタッフの「共通言語」をつくっていく。
たとえば昨日書いたエントリにあるように、子ども同士のトラブルが起きたとき、前期の同僚は「子どもが自分たちでそのトラブルを解決する話し合いができるようにする」ことを大事にする。それなのに、その子達が後期に来たときに、僕が自分が中に入ってトラブルを解決していたら、子どもにとっての共通言語はそこに存在しなくなる。
僕はもともと、「授業は僕に任せて自由にやらせてほしい。大丈夫、信頼して!」という唯我独尊タイプの教員なので、「共通言語」と聞くだけで縛られる感じがする。でも、スタッフ全員で子ども全員を見るって、そういうことなのだろう、とも感じている。個々のスタッフのやりたいことを大事にしながら、共通言語を持つ。理念ほどにあいまいではなく、かといって、「スタッフ一丸となって前に進もう」とか「風越スタンダード」というほどに僕らをがんじがらめにしないもの。各スタッフが、自分の行動をふりかえって、他のスタッフと「どう思う? 次はどうすればよい?」と具体的に語り合えるもの。そういう「共通言語」を、同じ学年やホームのスタッフだけでなく、前期・後期を超えたみんなで持っていきたい。
残念だけど、今はまだその共通言語がないんだろう。だって、4月に入ってきた同僚たちが、風越では何がどこまでOKなのか、自分がどうふるまえばいいか、戸惑っていたもの。
具体的な手触りのある共通言語を持つ
学校草創期で、熱意のあるスタッフばかり。そして、なんとなく似た教育観を持っている(ご存知のように、僕なんて、だいぶ風越スタッフのマジョリティからは外れているほうである)。それでも、みんなが個々にこれまでの経験と信念だけでやっていては、既存の学校システムの頑健さには絶対にかなわない。放っておくと、もとの学校システムがなつかしくなってくる。でも、そこに戻ったら僕らのチャレンジはない。
だから、スタッフみんなで、具体的な手触りのある共通言語を持つ。ここが押さえられていないと、空間も開放的でコミュニティも流動的な風越では、こちらの身体的メッセージが拡散してしまって子どもを混乱させるのだ。「順調に問題だらけ」の「問題」とは、子どもの側だけじゃなくてスタッフの側の話でもある。
前期と後期の共通言語をどう作る?
幸い、風越では「自分ひとりでやる授業」がほとんどない。テーマプロジェクトはもちろん、国語も算数も、チーム・ティーチングだ。僕も国語の授業をさんだーと一緒にやっている。だから、近くのスタッフ同士では、授業をめぐってやりとりをして、共通言語をつくりやすい。これは、ちょっとめんどくさくもあるけど、普通の学校にはない大きな強みだ。
課題は、前期と後期とか、比較的遠くにいるスタッフ同士の共通言語をどう作るか。下記エントリにも書いたけど、前期と後期の間にはけっこうなギャップを感じている。
ここで大事なのは、対話や、まして議論じゃない。前期のスタッフには保育の現場出身者が多くて、例えば僕のいた中高の現場とは本当にバックグラウンドや使う言語が違っていて、話していても信念対立にしかならないのだ。「評価」という言葉一つとっても、受け止め方が全然違うんだもの。
今年の僕は、週1だけでも前期に行かせてもらえるおかげで、少しずつ前期の同僚の仕事ぶりを見られるようになり、一緒に現場を見ながら質問もし、話もでき、具体的な実感をともなう敬意も持てるようになってきた。だから、「前期と後期のどちらかに寄せる」ではない形で共通言語を作っていくには、一緒に仕事して、お互いに敬意を持つのが早いと思っている。実のある対話ができるのは、その後だ。その機会を増やしたい。どうしたらもっと増やせるのかな。
もう一度書くと、「順調に問題だらけ」
今週は、正直たいへんだった。長い一週間だった。でも、ここに書いた課題意識について岩瀬さんと話したり、ラーニンググループのスタッフとも感じていることや大事にしたいことを確認しあったりして、一緒に前に進めそうな一週間でもあった。順調に問題だらけ。ほんと、順調です。
今週は教育実習生を2人指導していたけれど、学校内で流通する共通言語を仕込んでいたんだなあと実感しました。