対照実験は非倫理的? 「実験デザイン」をめぐるモヤモヤ感


今日は、教育における「実験デザイン」(experimental design)ってどうなの? という話を書く。

教育研究の研究デザインの一つに「実験デザイン」がある。科学や医学の実験のように「教室集団を2つのグループに分けて、一方には教授法Aで教え、もう一方では教授法Bで教えて、どちらの成績が高くなるか比較する」というものだ。教室をフィールドにした教育研究では、大雑把にいうと「効果を主張する研究」と「何が起きているのか明らかにする研究」の2タイプがあると思うけど、前者のタイプではこの「実験デザイン」が一番強力である。

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教室は実験室とは異なって教授法以外の条件を統一できないので、正確に言うと「半実験デザイン (quasi-experimental design)」なのだけど、英語圏の論文ではこの実験デザインは良く見られる。日本の国語教育だと少数しか見たことがないが、僕が知らないだけで、心理系のアプローチの論文を探せば結構あるのではないか。

けれど、個人的にはこの「実験デザイン」はかなり抵抗感の強いやり方だった。

生徒を2つに分けて比較するなんて…非倫理的!

 

この抵抗感、学校の先生なら共感してくださる方も多いのではないかと思う。 僕が思っていたのはこういうことだ。自分は「これが生徒たちにとって最善」と信じる方法を模索していきたいのであって、今目の前にいる生徒を2つに分けて比較するなんて非倫理的だ。生徒を手段にしているようだし、授業の改善は、年度を変えて少しずつやっていけばいい。そもそも実験デザインなんてしたら、成績の付け方はどうすればいいの….?

とまあ、実験デザインに対しては抵抗感が強くて、「英語圏の論文は二群の比較が多いけど、なんでみんな平気な顔して対照実験できるんだろう。 ちょっとわかんないなあ…」と思っていた。

ところが、最近は、少なくとも実験デザインを簡単に「非倫理的」と批判することは難しいな、と思うようになった。気になるのは、その場合の「倫理」って、そもそも何を指してるのよ、ということだ。

「実験デザイン」は本当に非倫理的なの?

仮に一学年100人いたとして、これまでの教授法をA、新しい教授法をBとしよう。

例えば、「倫理的ではない」というのが「生徒を2つに分けて教授法AとBの効果を比較すること自体がけしからん」という意味だったら、その倫理観を持つ先生は、授業法を永遠に改善できない。「2年めは前年度と違う教え方をする」(今年の一年生100人は教授法Aで教えて次の一年生100人は教授法Bで教える)のも、時系列がずれているだけで生徒を2つに分けている点では同じだからだ。

むしろ、「生徒の利益を最大化する」という観点からは、「異なる年度で教え方を変えること」の方が「目の前の生徒を2つに分けること」より非倫理的だという批判も成り立つ。なぜなら、新しい教授法Bが本当にこれまでの教授法Aより効果的かどうかは、比較してみないとわからない(わからないから実験するのである)。もし教師の期待に反して効果的でなかった場合、異なる年度で教え方を変えたら新たに100人の生徒に不利益を与える可能性があるけれど、同じ年度でグループを2つに分けて比較すれば「被害者」の数は半分の50人で済む。そして、同じ年度であれば、どちらか不利益を与えてしまった50人にその後でフォローすることもできる。過年度の生徒100人にはそれはできない。こう考えると、「異なる年度で教え方を変える」って、結構ひどいことをしている可能性がある。

また、そもそも不利益を出す可能性自体がけしからんという話なら、繰り返すけれど、永遠に授業改善の試みはできない。教師はずっと教授法Aをやるしかなくなる。教え方を変えなくていいのだからある意味では楽な話だけれど、これが「生徒の利益を最大化している」とは到底思えないだろう。だって、教授法Aよりもっと有効な教授法が他にある可能性は、いくらでもあるんだから。

結局、問題はどこにあるのか? 残るモヤモヤ感

結局、問題はどこにあるのだろうか。少し真面目に考えてみると、「生徒の利益を最大化する」という観点から言えば、「実験デザイン」の方が「年度ごとに教え方を変える」よりも倫理的であることは、残念ながら認めざるをえないような気がしてきた。そして、もしも成績の付け方が問題なのなら、それは単に成績の付け方を工夫して2グループの平均点に統計的有意差が出ないようにすればいい(あるいはそもそも成績に考慮しないようにすればいい)という技術的な問題であって、面倒ではあっても倫理とは関係がない。

僕はこの程度のことも考えずに「対照実験なんて非倫理的」と思っていたのだろうか。結局、「教え方を同一学年で変えたら成績処理が面倒じゃん」というだけのことを、「非倫理的」という言葉ですり替えていたのだろうか?

でも、どうもそれだけではないというようなモヤモヤ感も残る。「考えを改めた!やっぱり実験デザインでしょ!」と言い切るのは、どうもためらわれる。

「教育」が目指すものは何なのか?


この問題には、僕のバイアス(思い込み)も関係していそうだ。例えば「これからやる新しい授業法の方が、これまでよりもきっと良いだろう、そうであってほしい」というバイアス。「過年度の生徒100人よりも目の前の生徒50人を大事にしたい」というバイアス。どちらも理屈では筋が通らないし、「多くの生徒の利益を最大化する」という観点からは非倫理的でさえあるのだけど、こうしたバイアスが「実験デザイン」に対する僕の姿勢に影響している可能性が高い

そして、ここで立ててみたいのは、このバイアスは「悪いこと」なのかどうか、という問いだ。少なくとも「利益最大化」という観点からは悪いだろう。では、その「利益最大化」という観点を教育に持ち込むこと自体が、本当に教育の目的に合うものなのかどうか。少なくとも「利益最大化」観点を教育現場の隅々まで行き渡らせたら、教育は随分と違うものになるのではないか。他にも、「実験デザイン」を支えている世界観にはどんなものがあって、それは教育という文脈と親和的なのかどうか、それを検討する必要がある。

結局、「実験デザインを許容できるかどうか」は、「教育をどのようなものとして捉えるか」という話につながっていきそうだ。これについては僕は勉強不足なので、もう少し他の人の意見も読んで考えていかなくてはいけないと思う。

(追記)
この「実験デザイン」って「ランダム化比較実験」のこと?というご指摘をいただきました。基本的な内容としては同じだと思います。イギリスで読んだ文章にもrandomised trial compared two models という言い方をしているものがありました。エクセター大学の授業では experimental designやquasi-experimental designという言い方が主に使われているので、ここではそれで書きました。

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