反省、反省….自分の「欲」は厄介だ、と感じた、短歌&俳句の授業。

日曜日の今日、午前中は学校に行って、56年生の短歌(独楽吟)と俳句の作品や、それを書いたプロセスへのコメントを書いたところ。11月中旬、冬休みまでの残りの授業回数を考えたらもう大きなユニットはできなかったので、どちらも3〜4回ずつで短歌と俳句をやった。短歌も俳句も基本的には好きなのだけど、今回はモヤモヤや反省点の多い回だった。たぶん、一番大きいのは自分の「教えたい欲」とどう向き合うかという問題。モヤモヤの中にいる今の自分をここに書いておこう。

写真は前回のエントリと同様に、八丈島の八丈富士に登っている時に見た、海に浮かぶ八丈小島。『冒険者たち ガンバと15匹の仲間』でガンバたちとノロイの最終決戦があった島のモデルだそうだ。

目次

「独楽吟」、ちょうどよかったみたい。

まずは短歌の方から。短歌の実践だと、中高時代も含めて僕はこれまで「穴埋め短歌」や、短歌と写真を組み合わせる「歌人の時間」をやってきた。ただ、授業をする前から、今年はこれは難しそうだなという判断がまずあった。どうするといいかな、と迷って、結局は光村の6年生の教科書にある「独楽吟」(たのしみは〜とき)をやることに。ちょうど、11月の月末が独楽吟のコンクールの締切だったので、それに合わせた形である。

自分のやり方はこれ。お薦めです、穴埋め短歌。

2015.05.03

短歌と写真を合わせて作品を作る「歌人の時間」のふりかえり

2020.11.23

実は教科書の実践をそのままやるのってあまり経験がなかったのだけど、難易度としてはこれでちょうどよかったみたい。いざやってみると、57577の音に合わせるのも苦労する子が続出して、やはり、まだまだ自分が子どもたちに合わせられていないのだな、と痛感した。まずは5音や7音のリズムを意識してもらう必要があるんだとわかったので、それ以降は毎回、歌詞に5音や7音のある歌を授業の冒頭に流すようにした(唱歌から始まって、「裸の心」「残酷な天使のテーゼ」「やさしさに包まれたなら」…etc)。

振り返ってみると、本当はもっとシンプルに5音や7音に慣れる遊びをやってもよかったんだと思う。「ネギ/トマト/パイナップルにピスタチオ/いちご/にんじん/お醤油/ソース」みたいに、75調で名詞を上げていくとか。あるいは、図書館を歩いて本のタイトルになっている5音や7音を探すとか。もし来年以降に短歌や俳句などの定型の短詩型文学を扱うことがあったら、まずはそうしてみたい。

とまあ、この授業で今更に気づいたのは、自分が子どもたちのレベルを適切に把握できていないことや、そのレベルに自分が合わせられていないことだった。当たり前だけど、子どもたちの実態は年々変化するので、「穴埋め短歌」や「歌人の時間」など、これまで自分がやってきた実践の中から、「面白そう」と思うものを差し出すだけだと、子どもたちを置いてけぼりにしてしまう危険があるのだ。

「取り合わせ」学習用の俳句カードを使ったものの…

さて、独楽吟のコンクールに向けて短歌を作っている時に、「おーいお茶!新俳句大賞」の方は賞金が最大50万円らしいという情報が飛び交い、やたら盛り上がった。ではこの熱を使わない手はないと、急遽、俳句もやることにしたのが12月。で、俳句といえば、僕の手元には夏井いつきさんの俳句指導を参考に作った「季語カード」「12音カード」がある。去年は、これを組み合わせて俳句を作るところから導入したのだった。

導入は俳句づくりのゲームから!「取り合わせ」に再挑戦の今年の俳句の授業

2022.08.11

今回も「575作文」になるのを避けるべく、「季語カード」の冬版を作成して、12音カードとの組み合わせで取り合わせの俳句を作るように指導したのだが….結論から言うと、56年生の多くには「取り合わせの俳句を作る」こと事態が、ちょっと難しかったようだ。結果として、自分では出来の判断が難しいのか、「あすこま、これでいい?」と僕に確認を求める子が続出してしまった。これはどう考えても大失敗である。僕自身は、自分の作品が完成したかどうかや、その良し悪しは、子ども自身に決めてほしいし、その判断基準を自分で持つことを目標に授業をしてきたつもりなのだから。「これでいい?」と聞いてくる子たちの相手をしながら、内心では「どうしてこんなことになっちゃったんだろう」とぼやきたい気持ちだった。

自分の「欲」という「魔物」

とまあ、そんな反省点がある今年の短歌・俳句の授業。でも「どうして」と書いたものの、よく考えたら、この失敗はひとえに自分の「欲」のせいである。具体的には、「書かれていない情景を読み手に想像してもらう俳句の良さを知ってほしい」「ただの575作文になるのは嫌だ」「取り合わせの句を作れるようになってほしい」という欲だ。他にも「こんな授業やったら(自分が)面白そう」という欲もある。この欲の結果として、子どもたちの実態よりも難しい授業をしてしまったのだろう。だから、子どもたちは、自分の作品が「これでいい」のかわからず不安になり、僕に聞きにくるわけである。

僕はもともと国語というコンテンツへの興味で教員になった人間。だからと言うわけではないが、自分のやってみたい、楽しそうと思える授業と、子どもたちの実態に差があるとき、それはもう子どもたちの実態に合わせるのが理屈の上では正しいに決まっているのだが、僕個人の「欲」が出て、自分自身が面白いことをやりたくなってしまう時がある。(こういうの、違うタイプの人から見ると、ほんとよくわからない現象なんだろうけど…子どもどうこうよりも自分が楽しいことをやりたくなっちゃうんだよね)

今回の失敗は、そういうタイプの教員が得てして陥りがちな罠ではあるのだけど、それにしても自分の欲って魔物だ。「自分の欲」と「子どもの実態」のギャップ問題は、すでに2年前の下記エントリでもジレンマとして書いていたのだけど、今年はそれがいよいよ無視できなくなってきたみたい。

小学生にどこまで求める?俳句創作の授業ふりかえり

2021.10.09

優先順位を間違えないように…

自分に「欲」があるのは自分にとって自然なことだから、それを殺そうとは思わない。ただ、その結果として、子どもが「作品の良し悪しの判断基準」「作品の完成の判断基準」を他者(僕)に求めるようになってしまうと、それはもう僕のやりたい授業の正反対の現象を、他ならぬ僕自身が引き起こしていることにもなる。いくら「教えたい欲」の強い僕とはいえ、それはさすがに嫌だ。ここはちょっと真剣に考えたい。この「欲」とどう向き合うかは、本当に大きな問題で、優先順位を誤ってはいけないところだ。

もう一つ、たとえ難しいとしても、課題を自分たちで解決しようとするコミュニティを育てられていなかったことも気になった。僕に答えを求めるよりも「どう思う?」と他の子と試行錯誤してほしかったな。この辺も、僕の授業の課題なんだと思う。とまあ、反省点の多かった年末の短歌&俳句の授業だったけど、課題は課題として受け止めて、ここからまた年明け、自分の授業を作っていきたいな。

 

 

 

 

 

この記事のシェアはこちらからどうぞ!