ちょっと待ってみて。SNSでの「採点さらし」

誰宛に書いているのか書き手本人もよく分からない雑談系エントリ。「おかしいと感じた採点でも、SNSでいきなりさらさずに、まずは教師に相談してみて」というだけの主張に、こんなに字数を使ってしまったことにやや反省…。「テストや課題の採点は、それだけでは切り離せないよ」という、同業者の方には当たり前のお話です。

目次

時々見かけるSNSでの「採点さらし」

ツイッターのタイムラインに、あるテスト採点について「これはひどい」という趣旨の写真つきツイートが流れてきました。時々こういうのありますね、教師の答案や板書を「さらす」目的でのSNS投稿。まあ、教師の数はごまんといるので、中には実際にひどい採点をする教師もいるんでしょう。率直に言うと、僕もツイッターで流れてくるその種の投稿を見て「こ、この採点は…」と思うことの方が多いので、さらして不満をネタとして消化したくなる、あるいは怒りに同調して欲しくなる気持ちはわかります。でも、どんなに怒っても、それをさらすのはちょっと待って欲しい、と一教師として思います。

学校のテストと模試・資格試験の違い

基本的だけど大事なことを確認しておくと、学校の授業中の小テスト・中間テスト・期末テストは、例えば塾や予備校の模試、あるいは各種資格試験などと違って、それだけで「独立」していません。一学期間や一年間の授業の「文脈」の中で位置付けられ、独特の意味を持つのが学校のテストです。また、塾の模試や資格試験と違って、「授業をしている本人がテストを作る」のが(そのこと自体の良し悪しの議論は別にして)学校のこの種のテストの大きな特徴でもあります。

そのため、学校でのテストは「成績の査定」であると同時に、その場の文脈に属した「テストを通じた教師から生徒への教育」という意味合いも帯びています。というか、そもそもテストは生徒の学習を促進するためにあるんですから(学校は生徒を「ふるい分ける」ところではありません)、後者の側面の方が大きくたって良いと僕は思います。

外からは見えにくい採点の「文脈」

テストの持つこのような意味合いのため、テストの採点の全体の文脈の中での位置付けも、生徒または保護者の側からすると見えにくい部分も出てきます。もちろん教師はテストの採点方針について説明できなくてはいけませんが、その方針は必ずしも「テストの内容」にだけ完結する必要はなく、周囲の文脈も含めて採点方針を立てる場合も少なからずあるでしょう。

例えば、「今回は学期の最初だから、教師側の注意をきちんと聞いているかどうかを重視しよう(設問の指示に従わない答案には厳しく当たるぞ)」という人や、「中間テストと同じ問題を出して、復習しているかどうか確認しよう(この問題を間違えたら大幅な減点だ)」という人もいるかもしれませんし、成績に大きく影響しない小テスト程度であれば、「この生徒には前回も同じ注意をしたのに、また同じことをやってきたから、今回は厳しくつけよう」という「その生徒だけ他の生徒と採点基準を変えて厳しくする」先生も(賛否は別として)いたっておかしくないわけです。

授業者と問題作成者を別にする?

こういう、試験におけるパターナリズム的な「教育的配慮」自体がくだらない/一切やめるべきだという人も(特に教師ではない人には)当然いると思います。「配慮」の方向が周囲から見ると間違っている教師も一定数出てくるだろうし、何より教師の個人的判断と成績が結びつきすぎると、成績評価権を盾にした教師による生徒への支配が進みますからね。そのリスクは僕もある程度承知しているつもりし、権力者としての自分の振る舞いには注意したいなと思います。いっそのこと、模試や資格試験のように、学校でも授業者と問題作成・採点者を別人物にする方針もありかもしれません

ただ、賛否は別にして、現状「多くの教師が自分の教育観や授業の流れの中にテストや課題を位置づけていて、テストや課題の採点も、そういう文脈を抜きにして単独では取り出せない場合が多い」ということは、まあ事実として言えるのではないでしょうか。採点の時にも解答用紙の名前を隠したりはせず、良くも悪くも「生徒の顔を思い浮かべながら」採点するものです(僕もそうです。記憶力が悪いので思い浮かべようとして浮かばないことが多々ありますが…)。

これが外から見た時に「グレーな採点基準」となって教師不信につながるのも事実で、教師の側で採点が恣意的にならぬよう自制する必要は当然ありますが、一方でこれが教育として有効に働く場合があるのも事実だと、一教師としては感じています。

「問題さらし」はこういう文脈をすべて切り捨てる行為

採点された解答用紙だけをツイッターなどに「さらす」という行為は、こういう「テストをめぐる周囲の文脈」を全て切り捨てて、衆目にさらして断罪しようとする、とても乱暴な行為です。「ひどい採点だから当然」と思う人もいるでしょうが(これまでの事例を見ると感情的には理解できますが、ちょっと待って)、中にはちょっとした不満や誤解がもとで採点をさらす人も当然出てくるでしょう。ひどいと思ったけど、後で話を聞いてみたらそうでもなかったことも当然あるでしょう。文脈を切り捨てたが故の失敗、というわけです。

僕としては、リスクを気にするのも正直嫌なくらい

で、もし僕が、自分が出題した期末試験の採点の一部分だけを周囲の文脈抜きに切り抜かれ、さらされ、それがRTされて自分のタイムラインにも出てきたら…。教師側としては、そんなリスクを頭の片隅に置かないといけないことだけでも、正直やる気を削がれる感じがします。

ちなみにこれ、これ、板書をさらすのも同様です。板書も授業の文脈を構成する一要素に過ぎず、それだけで独立して取り出せないから。仮に板書の良さを一律に判定できるとして(この点ですでに僕は反論するけど)、ひどい板書とひどい授業は全く同一ではありません。

例えば僕の興味のある作文指導でも「前回に比べてここが進歩したからそこは褒めて、ミスの指摘は最低限ここだけにとどめ、他の欠陥には今は目をつぶろう」という添削をする可能性があって(現実はなかなかそこまで丁寧に添削できませんけど、添削の戦略としては効果的です)、仮にその場合にも、生徒や保護者が「このひどい作文が褒められてる!先生バカじゃない!? それか仕事が適当すぎ!」とかツイッターでさらす可能性を考え出したら、正直、この仕事自体をやってられなくなりますね。

疑問に思っても、さらす前に教師に直接質問を

というわけで、結論は非常に穏当なのだけど、仮に「?」と思ったり、中には「どう考えてもおかしい」と怒り出すような採点だったりしても、いきなりネット上でさらしたりせず、まずは直接理由を教師本人に尋ねてほしいなと思います。仮にさらされたツイートを教師自身が目にしたら、相手も感情を持つ人間ですから(採点に非があると自覚しても)その後の修復が難しくなるかもしれない、ということも念頭に置いてください。

(追記)「仮に…」以降の部分について脅迫めいているというご指摘をいただきました。「あ、なるほど。採点の真意が何にせよ教師の気分を害するのはまかりならんという、教師の立場を絶対的に擁護していると思われる話法かも(=自分が無意識に擁護しているのかも)」とも思ったのですが、その反省とともに、ここにそのまま残しておきます。もちろん仮に気分を害しても、教師の側はフェアに対応せねばなりません。

自分(生徒)の弱い立場を考えると抗議や質問はちょっと…という人は、他の先生に相談したりする方向でどうぞ。まあ教師も必ずしも「話せばわかる」人ばかりじゃないのは承知の上ですが、それでもいきなり管理職とかに行かない方がうまくいくはず。

もし教師なりの独自の採点方針があれば、もちろん事前に告知しておくのがフェアだと思います。ただ、中にはそうするのを好まない人もいるでしょう。中には、「いざ採点してみたら中間試験と同じ問題のデキがひどかったので、急遽それを厳しくつけるように採点方針を変えた」みたいなこともあるので、事前に基準を全て公開せよというのもなかなか難しい話かも。あと僕の場合は、最後の授業の時にまだ期末テストが完成していなかったりもするので…(お察しください)。

この記事のシェアはこちらからどうぞ!

11 件のコメント

  • あすこまっ先生、ご無沙汰しております。すみません、忙しさにかまけて先生と連絡取れず。。。
    私のもとには高校から小論文添削の仕事がやってきます。うちの添削員に添削を依頼するのですが、先生の仰る「ひどい作文が褒められてる」(「いい作文なのに否定されてる」という逆もあります)と教員からクレームとして食らう時があるんです。職員室内でそれが広まって再受注なし、ということもあります。添削結果を断片的に捉えられるのは、私も抵抗感があります。
    特にいわゆる添削業者の添削はバカ丁寧すぎて、「ここまでやる必要がどこにあるのか(こんなに指摘したら生徒は消化できない)」と思うことが多々あり、それを教員側がありがたがるんですよ。これじゃあ、結局「小論文指導をやった」というアリバイ作りにしかならず、肝心な生徒の能力向上には繋がらないと思うんですよね。

    • ありがとうございます。たくさんコメントを書いた方が「誠意がある、ありがたい」と受け止められるのでしょうかねえ。でも僕も作文教育に興味を持つまではそう思っていたので、ちょっとわかる(賛成はしないがなぜそういう反応なのか理解はできる)話だと思いました。添削の効果についての実証研究は(少なくとも英語圏では)あると思うのですが、それを示しても「感覚的に、たくさんのコメントの方が良い気がする」になりそうですね。ううん、難しいなあ…。

  • はじめまして。

     ケースバイケースだと思います。晒すべきでないケースもあるでしょうが、晒すことが教育全般を改善することにつながることもあると思います。

     むやみに晒すべきではないとは思いますが、晒すこと一般が否定されるべきではないと思います。

     大抵の行為は、適切な場合と不適切な場合があります。「むやみに○○すべきではない」というのは大抵の行為に当てはまりますが、それは当然「○○すべきではない」を意味しません。暴飲暴食は慎むべきですが、何も口にしなければ餓死します。

     私は算数教育について調べていますが、実際の採点の写真を見ることで、掛け算や足し算の順序でバツにするような採点が行われていることがわかりました。これは教師個人の判断と言うよりは、算数教育全般の問題であることが分かってきました。

     「直接理由を教師本人に尋ねてほしい」とのことですが、実際それで問題が解決しないでネットで公開されるケースもあると思います。私の印象だと、単なる採点ミス、というケースも多々あるはずですが、そのようなものは晒されていないと思います。そうすると、教師にも質問したけど埒が明かなくて公開される場合が多いのではないでしょうか?

     私としては、算数教育においてどのような採点が行われているのか知りたいので、教師に尋ねて言いくるめられるよりは、いきなりネットに公開してほしいぐらいに思っていますが。

     私が見てきた範囲では、算数でのおかしな採点とされる写真に関しては、仮に教師の側に何らかの考え・事情があったとしても、おかしな採点としか言いようがないのが大半です。

     長方形の面積を横×縦でバツ、というケースがありました。教師が、「縦×横が正しい。テストでもこの順序で書くように」と指導していて、「ちゃんと公式を使ってほしい」という思いでバツをつけたとしても、そのような事情を含めて駄目な教え方でしょう。

     

     自分はこの採点はおかしいと思うが、みんなはどう思うか?」と公開の場でみんなの意見を聞くこともあると思います。

     公教育と言うのは、教師と生徒、保護者だけのものではないと思います。どのような教育が行われているのか、多くの人が知る権利があると思います。おかしな教育が行われていたら批判されるのも当然です。

     教えた公式以外の方法で解いたらバツ、などという採点が行われているとしたら、指弾されて当然だと思います。

     ネットで公開され採点が批判されることで、ネットを見た教師が「そうか、教えた方法以外の解法だからとバツにしてはいけないのだな」と考える機会にもなると思います。

     問題を顕在化させておおやけにすることで、教育全般の改善につながることもあると思います。

     逆に伺いたいのですが、おかしな採点、おかしな教え方をしている教師がいたときに、それはどのような回路で改善されるのでしょうか?一部でしょうが、モンスター教師というのも存在するようです。

     教師個人レベルではなく、算数教育のように全体的におかしな教え方がなされているとしたら、それはどのように改善されるのでしょうか?

     算数教育に関しては、教科書会社、教育委員会、中教審、国立教育政策研究所、大学の教育学部の先生レベルでおかしな教え方を推奨しています。

     これらが改善されるためには、学校の外の人間も含めて多くの人が問題の存在を知って声を上げる意外にないと思います。そのためにも、採点を晒す行為と言うのは、有効だと思います。

    「正直やる気を削がれる感じがします。」とのことですが、それは採点される生徒にも言えるのではないでしょうか?

    「1.5mのホースの重さは270g、このホースの1mの重さは何g?」 「0.5mで90g、なので1mだと180g」としたら、「小数の割り算の単元だから」とバツにされたら、やる気をなくしてしまうかもしれません。

     ちなみにこれは、写真はなくて自分の子どもでこういう採点だったという話をツイッターで語ったという事例です。

     以前、算数教育について地元の市教委指導主事と話し合いをしたことがあります。そのとき私が「ネットなどでこういう話(上に書いたホースの問題のことではない)があるが、・・・」と言い掛けたら、「ネットの情報を鵜呑みにしないでくれ」と言われました。私は鵜呑みにしているのではなく、ネットでこういう話が出ているが実際どうなのか?とかそういうつもりで聞いたのですが、市教委は「学校教育には一切何も問題がない」ということでやり過ごして、問題を議論すること事態を封じ込めたいようでした。
     そういうときに、実際に写真があれば、「教えた公式以外の解法はバツ」という事例がある有力な証拠にもなります。(ただし、横浜市教委指導主事は私の電話での問い合わせで、そもそも「教えた公式以外の解法はバツ」という教え方を肯定していました。この場合は「証拠」の有無は関係なくて、おかしな採点の写真を提示しても、「それのどこが問題ですか?」となっちゃいますが)

     【もし教師なりの独自の採点方針があれば、もちろん事前に告知しておくのがフェアだと思います。】

     これに関しては、事前の告知があっても不当、と言う場合もありえることにご留意ください。

     算数教育でも、「掛け算の順序を正しく書くように普段の授業で言っているなら3×4とすべきと4×3としたらバツになるのは当然」「公式を使うように普段の授業で言っているなら・・・」という意見を聞くことがあります。

     しかし「正しい掛け算の順序」「教えた公式のみを使う。自分なりに解法を考えてはいけない」という教え方そのものが問題とされるべきでしょう。

     先ほどのホースの問題も、教師が普段から「テストでは授業でやった解法でやるように」と指導していたとしてもバツは不当です。「授業でやった解法」を奨励して、自分なりに考えることを忌避させること自体が、算数・数学への冒涜とも言え、その後の算数・数学の理解のうえからは有害といえるでしょう。

     「そのような採点をする教師の側の考えもある」ということは、必ずしも、そのような教師の側の考えに正当性があることを意味しません。

    以上長々と失礼しました。

    • ありがとうございます。ツイッターでお返事しましたが、「いきなりさらさずにまずは教師に文脈の確認を」が主旨で、そのあとのことについては書いていない記事です。で、おっしゃる通りその後はケースバイケースだとは思います。特に「公式以外の解き方を認めない」など「教師集団全体の文脈をこそ問題視したい」場合は、学校の中では解決しない可能性もありますしね。

  • 文脈とは、違いますが、先生方が作成するテストは、生徒から先生の授業へのフィードバックの側面もあると考えています。
    採点基準については、先生が書かれている通り、個々の生徒を見ているからこそできることで、個々の生徒にあわせたフィードバックができるからこそ先生方が作成し、採点する意味があるのかなあと思いますので、評定はありますが結果そのものは、到達レベルの方が点数刻みより、選別性を緩和する意味でよいのでは、最近考えます。

    • はい、生徒個々に合わせたフィードバック、それをしたいものです。記憶力のない僕には相当の難関なのですが…(笑)。過去の自分の採点記録を全部保存して生徒ごとに閲覧できるソフトが欲しいですねえ…。

  • あすこま様に賛成です。

    もちろんケースバイケースですが、一般の人たちが採点について意見を述べるのであれば、理解してもらいたいことがあります。

    まず、それが本当に教師による採点なのか。テストの珍回答という書籍を立ち読みしましたが、どう考えても大人が書いたとしか思えないものもありますね。Twitterなどでもリツイートされやすい話題ですから、慎重にとらえる必要もあるでしょうね。

    次に、特に小学校の授業についてよくわかってもらいたい。
    ただし、ある意味理想論でもあるので、もちろんそうでないダメな教師もいます。

    小学校は担任制なので、国語算数理科社会だけでなく、ほとんどの教科を担当します。それだけ子どもと接する時間は長いのです。だいたい何が得意で何が苦手かはわかりますね。
    そして、例えば割合の学習でも配当時間は10時間ほどはあります。その間に、子どものノートを見たり、発言を聞いたりしていますので、それぞれの子どもがどれくらい理解しているかは想定できます。
    加えて、教室にはいろんな子どもがいます。うちの学校でも開成中学に受かる子と6年生でも九九が怪しいという子が一緒に学んでいます。一律にはできません。

    「1000円の50%はいくら」のような問題で「1000÷2=500」とする子どもをどう評価するかが難しいですね。これに×をつけて、ここだけ切り取られてネットに晒されたら、たぶん、たくさんの人が「あっている」と非難するでしょう。
    でも、この子がその前の問題で「500円の70%はいくら」の問題が無回答だったらどうでしょう(*1)。
    開成中学に受かるような子どもだったら丸でもいいかもしれません(*2)。
    ところが九九も怪しいような子ども(*3)の場合は要注意です。お母さんとスーパーで「50%引きは半額よ」と教えられていたかもしれません。
    これを合っているとしてしまっては、割合の計算、百分率の計算が理解できてないままスルーしてしまう可能性があります。
    ここはあえて×をつけて、もう一度学び直すチャンスを与えるというのが、本来の学校のテストの意義です。

    入試はふるい落とすものですが、小学校でのテストはあすこまさんの言われる通りのものなんです。だから文脈は大事です。

    *1 ケアレスミスへの対策として類似の問題も出されます
    *2 実際に受かるような子は、出題者の意図も見抜きますので、きちんと1000×0.5とします。
    *3授業の発言やノートやワークでも理解が低いと感じられる子どももふくまれます。

    • Uchida-Rさんへ

       特に小学校の授業についてよくわかってもらいたいとのことですが、私自身はかれこれ10年近く、算数教育について調べていて、現場の先生には到底かないませんが、ある程度は分かっているつもりです。

       そして、晒される「おかしな採点」の多くが、単なる採点ミスや、駄目な教師によるもの(児童はその教師の下で授業を受けるのだから、一教師の問題であっても、問題だと思います。)ではなく、そのようなおかしな採点が出てくる文脈・背景に問題があることが分かりました。

       【「1000円の50%はいくら」のような問題で「1000÷2=500」とする子どもをどう評価するかが難しいですね。】

      とのことですが、無条件にマルとしないで「難しい」となってしまう算数教育界の流儀こそが批判されています。

      問1「1000円の50%はいくら」 1000÷2=500 500円
      問2「500円の70%はいくら」  無回答

      この場合、問1をマル、問2をバツ、とすればいいだけです。なぜ問1の正誤が、問2の答案に影響されないとならないのかまったく分かりません。

      【これを合っているとしてしまっては、割合の計算、百分率の計算が理解できてないままスルーしてしまう可能性があります。
      ここはあえて×をつけて、もう一度学び直すチャンスを与えるというのが、本来の学校のテストの意義です。】

      とのことですが、問2が不正解なら百分率の理解が不十分と判断して教えるのではないのですか?問1をマルにすると、教えないことになるのですか?

      テストはその子が理解しているかどうかを見るための文字通りテストですが、勿論、正解なら理解している、不正解なら理解していない、とは限りません。

      しかし、A君は普段の態度などから理解している、B君は理解していない、と判断していたとして、両者がまったく同じ、教師が想定した模範解答とは違う正解を答案として書いたときに、A君はマルでB君はバツ、などということがありえるのでしょうか?

       教える側が、「正解したからと言ってその子が理解しているとは限らない」と認識して指導すればいいだけのことであって、ある子がある問題に関して正解しているが、ほかの問題の出来や普段の状況から理解していないと判断した場合、その問題をマルにすると指導できない、バツにすると指導できる、ということではないと思います。

      問1「1000円の50%はいくら」 1000÷2=500 500円
      問2「500円の70%はいくら」  無回答

      またこの場合、理解は不十分だが50%が半分であるということは理解している、と判断するのが妥当で、指導の際はそこに留意してそこを手がかりに教えるべきでしょう。

      逆に 1000×0.5  500×0.7 と求めた子は、割合の概念はまったく理解していなくて公式を丸暗記していて正解になっているだけかもしれません。公式を当てはめているだけの子は計算ミスで一桁ずれても平気だったりするので、そういった点も判断材料となるでしょう。

       掛け算の順序その他の算数数教育でのおかしな点を調べていると、「教えた方法と違うやり方で求めているから理解していない」という不可解な言説に出会うことがあります。

      これは話が逆転しています。

      教えた方法と異なる方法で正解に行き着いたということは、理解している蓋然性が高いと考えるべきでしょう。
      教えた方法と同じ方法で正解に行き着いた場合は、理解していなくて単に手順を覚えていて再現しているだけかもしれません。もちろん、ちゃんと理解してのことかもしれません。

       しかし一般的に言えば、理解している場合は、教わった公式や解法をいちいち意識しないでその場で考えて正解に行き着くことが多いでしょうから、手順・公式を丸暗記している子よりも、教師が想定する模範解答からずれることが多くなると思います。

      【実際に受かるような子は、出題者の意図も見抜きますので、きちんと1000×0.5とします。】

      とのことですが、確かに優秀な子であれば、頭では2で割ってもとめていながら、解答欄には教師の意図を忖度して教師が望んでいる答案を書くことはできるでしょう。

       しかし私は、そのような状況を作っている授業自体がまずいと思います。

       これはつまり、「自由に考えていい、とにかく正解に行き着けばいい」ということではなくて、「こういう問題ではこのように解くのが望ましい」と教えているということですよね。

       これこそが算数教育において大きな問題だと思います。

      ことは採点だけの話ではありません。1000÷2=500 にバツをつけるのは論外ですが、マルをつければそれで問題ない、ということではありません。

      マルをつけても、「本当は1000×0.5=500の方が望ましい」と教えているとしたら、あるいはそう教えていなくても、子供がそのように受け取っていたら、それはまずい教え方をしていることになります。

       授業で教えた方法・教科書に載っている公式で解くのが望ましい、と子どもが思ってしまったら、子どもは考えることよりも、覚えることに腐心することになります。

       見たことのない問題に出会ったときに子どもが「習っていないから出来ない」「教わっていないから出来ない」「初めて見る問題だから出来ない」という声を上げたら、それはまずい教え方をしてまずい結果になっているということです。

       問題を出したときに「これ、なに算で解くの?」と質問する子は、問題ごとに「正しい解き方」なるルールがあると思っていることかもしれません。これもまずい教え方をした結果です。

       考えることよりもやり方を覚える、という勉強法を身に着けた場合、短期的にはテストで模範解答を書くことができ、何も問題ないように見えますが、後々困ったことになります。

       現在私は塾で高校生に数学を教えていますが、公式・解法を覚えることが数学の勉強だと思っている高校生が大半です。入塾直後は、まずは、その認識が誤りで、公式や解法は一旦忘れ去って、理解することが重要である、ということを認識させなくてはならないのですが、小学校以来、ずっとそのような勉強をしてきて、中学数学ぐらいまでは出題パターンも限定されているので何とかそれなりに点数も取れてしまい、「自分は今までのやり方で数学が出来ていた」と誤った自信を持っているケースが多々あり、認識を改めさせるのに苦労します。

      私は、「1000円の50%はいくら」を、1000×0.5とする児童こそ、将来このようなことになる可能性が高いと思っています。

      理由はすでに述べましたが改めて要点を書くと

      教わった公式どおりの式であり、公式を当てはめただけで理解していないかもしれない。
      教わった公式・解法でやるのが望ましいと思っているかもしれない。

      ということです。いずれも、算数・数学の勉強には望ましくないことです。

      長くなってしまいましたが、少なくとも私の見た範囲で、算数のテストの採点がおかしいとネットで騒ぎになるケースの多くは、駄目教師云々ということではなく、その背景・文脈がおかしいことの反映であり、背景・文脈が批判されています。

       なお私がここで問題にしているのは、教師の力量だとか熱意だとか授業時間の制約などの話とは別で、算数教育で教えようとしている中身がそもそもおかしいということです。
       割合の概念をどうしても理解できない子に「くもわ」などを教え込んで取り敢えずは基本的な問題だけは公式を使って解けるようにする、というようなことまで全否定するつもりはありません。

      「1000円の50%はいくら」を、実にエレガントに、割合を理解している大半の大人もやるであろう、1000÷2と言う方法を使った子に、「1000×0,5の方が望ましい」、「問題を解く場合、出題者が望んでいる解き方、本来の正しい解き方がある」と教えることがまずいのです。

       他にも、足し算の増加と合併の区別、引き算の求残と求差の区別、割り算の等分除と包含除の区別、0を倍数に入れない、「正方形は長方形ではない」と認識させる(一部の教科書)、

      など、現在の算数教育には問題が山積みです。
      テストの採点が晒されてそれがきっかけで、文脈・背景が批判されている例です。
      http://togetter.com/li/901635

      ソースの多くが、教科書会社や大学教育学部の先生の論文であることから、「文脈から切り取られた採点のみ」や「一部の駄目教師」というよりも、算数教育界の指導的立場の人が批判されているのが分かると思います。

       長々と失礼しました。 

  • すみません。コメントいただいていたことに気づかずにおりました。
    ネットでコメントを書くことも普段はありませんので、そこはご承知下さい。

    「あすこま」さんの言われている「文脈」は、「どのような子ども」で、「どのような学習を積み重ねて」きて、「授業でどのような指導を受けたか」のことと解します。
    そして、それが切り離されて採点だけが晒されることに対する危惧があるということでしょう。

    何度も繰り返しますが、学校のテストは模試や入試などとは違います。特に小学校ではまったく違います。これまでの学習を振り返り、それを子どもに自覚させ、これからの学習にいかすことが目的です。

    問1「1000円の50%はいくら」 1000÷2=500 500円
    問2「500円の70%はいくら」  無回答 (*1)

    このような回答で、問1を○にして問2を×にしてもよい子どもは、ある程度理解しているような子どもで、自力でも解決を見いだせるような子どもです。たぶん一番多い子どもです。この子は○でいいでしょう。そして批判する方は、そのような子どもを想定していると思います。

    でも、現実の子どもは多様です。○をつけることで混乱する子どもがいる場合も○をつけなければいけないのでしょうか。

    ×を考えなければいけない子どもは、○をつけてしまうことで、その考えに固執して問2のような問題ができなくなるような子どもです。
    ÷2で解けたのだから、他もそれを応用しようとして止まってしまう。500円の70%を同じようにして求めようとして÷3、÷4など繰り返して、それができないのでパニックになってしまいます。テストで一端○をつけてその後に指導しようとしても、もともとその解法しか頭にないわけですから、どうしても固執してしまうわけです。
    そういう子どもは×をつけて、リセットしたほうがよいということがあります。
    ÷2の方法は、間違いではありませんが、汎用性を考えると、子どもには×0.7のような方法を身につけてもらいたいです。どちらが正しいではなくて、どちらが、この子どもにとって適切か、を考えます。

    「どっちとも教えればよい」「教師が望ましいと考えている解き方の押しつけだ」という意見もあるかもしれませんが、そういう子どもは、どっちとも理解できるような子どもではありません。(*2)
    そもそも教えても分からないから、10時間もかけて、何度も何度も繰り返し、教え、考えさせ、経験させ、その積み上げでようやくできるようになるんです。
    場合によっては、もう「×0.7」のようなやりかたを教えてひたすら反復しなければならないケースもあります。そういう場合も「÷2」のようなやり方は邪魔になる場合があります。

    私たちも、子どもに多様な解き方を身につけてもらい、その中から適切な方法を選択して自由自在に割合が使えるようになってもらうことを目標としています。教えた方法とは違うからダメということはありません。でも、どうしてもできない子どももいます。
    私もできれば自分で公式を創り出せるくらいにはしたいと思います。でもできない子どももいる。そういう子どもに公式を覚えさせて反復練習させてでも、なんとかできるようにして進級させたい。そう考えます。

    私が「場合があります」「ケースもあります」「子どももいます」と書いているのは、子どもの学習については「絶対こうだ」とは言えないからです。繰り返しますが本当に子どもは多様です。書籍などで授業案として書かれているのは平均的な子どもです。
    だから、実際にどのような子どもがこのテスト受けたのかを知らないまま、またどのような指導を受けてきたのかも知らないまま(つまり文脈を切り離したまま)、「一般的に子どもには、こうするのが適切だ」と言われても、まったく意味はありません。

    ご指摘については、全部にこたえられませんが、
    【教わった公式どおりの式であり、公式を当てはめただけで理解していないかもしれない。】
    【教わった公式・解法でやるのが望ましいと思っているかもしれない。】
    いずれも推測で、そうでないかもしれません。もし切り取られた採点の画像だけでこれを判断できるのは、神ですね。
    【私は、「1000円の50%はいくら」を、1000×0.5とする児童こそ、将来このようなことになる可能性が高いと思っています。】
    その可能性は否定しませんが、1000×0.5と解答した子どもでも将来数学者となるような子どももいるでしょう。子どもによって違うのです。晒された答案を書いた子どもはどちらなんでしょう。だから一括りで語るのは意味がないことなのです。

    だから小学校段階では、子どもに応じた指導、採点が必要になります(*3)。
    ÷2は数学として正しいから絶対○にすべき、という意見も分かります。分かった上で、子どもにとって、「よりよい」方法を選択するというのが学校の教育なのです。

    これ以上コメントすることはありませんので、ご承知下さい。
    長々と失礼いたしました。

    *1 同じ問題をA君は○、B君は×というのは、基本的にはしません。÷2で解答したのが一人だけの場合です。後出しと言われるかもしれませんが、これもここで言う文脈です。こうした情報が切り取られた状況での採点を晒すことについて、危惧するのです。
    *2 割合の問題ではありませんが、発達に遅れがある子どもが複数の解法でパニックになった事例報告もあります。パニックとまでいかなくても戸惑う例は、たくさん経験しています。
    *3 しつこいくらいの繰り返しになりますが、小学校は学級担任で、他の教科もみています。ずっと子どもと一緒です。理科や社会で百分率も出ています。そうしたところから、子どもの状況をつかむことができます。もちろん、それができないダメな教師もいます。

  • あすこまです。返答があったところでブログ管理者として書きます。僕は小学校教員でも算数・数学教育の人間でもないし(僕は中高の国語科教員です)、元々のエントリの話題も別に特定の科目の特定の問題に特化したものではないので、算数教育に特化した話題がこれ以降も続くようなら僕のブログではない別の場所でやっていただきたいと思います。Uchida-R さんから「もうこれ以上はコメントしない」との言葉もありましたし、まあ、終わりにしてください。