先週の金曜日、風越学園ではミュージックフェスティバル、略して「ミューフェス」というイベントがありました。午前中はホーム(1-4年、5-9年を単位とする、異学年グループ)対抗のゆるい合唱コンクール、午後は有志の発表やカラオケ、出店などのある、フェス方式のイベントです。このミューフェスの前後、メンバーが完全にランダムで決まっている「ホーム」ってなんのためにあるのか、あらためて考えることが多かったので、今回はそれについて書きます。
現実の社会はそれほど「多様」ではない。
日本の小中学校は、同年齢で輪切りにした「学級」から成り立っています。同年齢という点では均質だけど、能力・性格という点では多様な集団。その多様な人たちが、強制的に同じ「学級」の枠に閉じ込められることの価値は、しばしば「実社会にも、自分と能力の違う人や気の合わない人はいる。その人たちと一緒に働く練習だ」という、社会の準備段階としての学級として語られてきました。
ただ、現実の社会は(というよりも、人がその中で働く会社は)学級とは逆に、年齢構成の上では多様だけれど、能力や嗜好の点ではだいぶ均質です。その会社を志望し、入社試験を通ってきたのだから、考えの方向性も似てるし、能力も選抜を経て、ある程度揃っている人たち。この均質化は、大学、もっと前の高校の段階から始まっています。入試を経て高校を選ぶ(高校に選ばれる)時点で、もうそこに集まるのはある程度は似たもの同士。それ以前に、都市部を中心に、中学受験や小学校受験を経験した人たちは、幼少期からすでに多様な人たちとの接点はかなり失われているわけです。
会社や学校の外に目を向けても、今は自分の気の合わない人と一緒にいる機会がどんどん減っている現状でしょう。プラベートでは趣味のあう仲間と会い、インターネットのニュースやオンラインショッピングで見る商品は、自分好みにカスタマイズされている。SNSでも自分と気の合わない人はブロックすればいい。
つまり、今の社会は、基本的に、不快な他者とは出会わないで良いようになっている。いわゆる日本のエリート層は、海外のエリート層とはつきあうけれど、国内の(あえてこういう書き方をするけど)低学歴層とは接点を持たない。昨今問題視されている社会の分断化は、それが居心地が良いからであり、私たちがそれを望んでいるからだということを忘れてはいけません。
この前提は子どもたちにも共有されている。特に、風越に来るような、私立学校に子どもを通わせられる裕福な家庭の子たちは、幼少期から自分のニーズにあわせて「選べる」世界を生きているのだから。
「選べる」社会における「選べない」ホームの価値とは
そんな「選べる」社会を生きる風越の子たちが、「選べない」ものの一つが「ホーム」です。この「ホーム」のメンバーは、完全に運で決まり、2年間は継続することが決まっています。通常の「学級」と似ていますが、構成員が1年生から4年生、5年生から9年生と、年齢の幅が広い意味では、「学級」よりも多様です。かつ、学習などを目的にした機能集団ではなく、朝の時間をすごす集団なので、拘束はゆるくなる。「遊ぶ」といっても、一方の人たちは体育館で思い切り体を動かしたいのに、他方ではそれだけは絶対に嫌な人たちもいる。
いわば、「気の合わない」こともある「選べない」メンバーと、2年間一緒にいることを「強制されている」のがホームという場です。それは楽しいだけではなく、むしろ「居心地の悪い」体験にもなりうるでしょう。それだったらホームなんて行かなくていいや。授業でもないんだし、気の合う仲間とおしゃべりでもしてやりすごそう…そう思う子は、決して少なくないのかもしれません。ぶっちゃけ、そう思いたくなる気持ちもわかります。
多くのことを「選べる」現代社会において、「選べない」ホームにどんな価値があるのだろう。ミューフェスの時期は、そのことを考える日々でした。もちろん、「多様性の学習の場」としてのホームに価値があると信じたいし、自信を持って子どもたちにそれを語れるといい。
でも、実際はそうは問屋がおろさない。「そういうおまえは、そもそも中学受験をして『自分にふさわしい友達』を選んだ人間ではないか」というツッコミの矢印がすぐに自分に向いてしまうから。そう、自分は中学・高校・大学・大学院と、常に選んできた側でした。勤務先だって、勤務校を選べない公立学校で働くことなど、はなから考えもせず、私立→国立→私立です。ほんと、好きな環境や付き合いたい人を選んできた人生。そんなこと言う資格お前にないじゃん、的な。
ただ、この年明けからホームの子と一人一人面談をする中で、ある子が言った「気の合う人同士で楽しくすごしましょうだと、ホームじゃない感じがする」という言葉には深く共感しています。そう、別に気の合った人たちで楽しく朝をすごすことをゴールにしているわけじゃない。じゃあ、ホームのゴールってなんなんだ。
自分自身が多様性に対して開かれていないことの自覚、自信のなさ、経験の薄っぺらさを噛み締めながら、ホームの子たちと、ホームの価値について考え、手を動かしていきたいなと、最近は改めて思っています。
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