子ども同士の関係性を見る/育てることについて

週1の水曜日保育体験、だいたい2ヶ月がたった。残念だけど、何か自分が劇的に変わった感覚は、これまでのところない。週1回という頻度は、点と点をつなげて線を描くには、いまの僕には少なすぎるのだ。こちらにも「スポット登板」的感覚が抜けないし、依然として「あすこまー」と声をかけてまとわりついてくる子もいる。つまり、彼らにとっても僕の存在はまだまだ「非日常」なのだろう。でも、そんな中でも、大小さまざまの面白いことに出会う。今回は、その中でも、今の自分にとっても大事なエピソードについて書いておきたい。

風越学園のそばには「軽井沢の芽衣」というカフェがあって、紅茶とスコーンのセットが楽しめます。「妖精の棲む森」も散歩できるんですよ…!!

 

停滞する作業、見て待つ保育者

5月下旬のある日、田植え直前のたんぼに行った。追分宿の無料駐車場を出発点に、てくてく歩いて40分。やっとついた田んぼで、代掻きをする。小さい子たちがどろんこの田んぼを歩いて土をかきまぜたあとで、最後には、柄振(えぶり)という、グラウンドを地ならしするトンボのような農具をひっぱって、田んぼを平らにならしていくのだ。

その、地ならしの作業をしていた男女4人の子の作業が、とまってしまった。重くて疲れたのか、そのうち一人の男の子が完全に別のことに気を取られてしまう。どうするのかな、と思っていると、ベテランの保育スタッフの同僚が、田んぼの反対側からずっと彼らを見ている。うんうん、こうやって見守っているの、いかにも「それっぽい」ぞ。僕だったらきっと彼らの中に入って一緒に手を動かしながら、その男の子に「一緒にやろうよ」と声かけちゃうよな。そうそう、できる教育者はとにかく待つ!

…と、のんきに思いながら僕も見ていたのだけど、だいぶ、時間もたってきた。同僚たちは、それでも待ちながら、彼らに何かを指示することもない。 「あー、◯◯は自分の世界に入っちゃったかな」 「でも、体は向いている。少しずつ近づいているから、気持ちは切れてないよ」 「こういうときに直接強く言っちゃうとダメですよね、★★は」 と、自分たちの見え方を交換していて、動こうとしない。

「関係性の育ちを見る」

いやー、徹底しているなと思いつつも、何を、どこまで待つのか、そもそも何を見ているのかがよくわからない。 そこで、あるベテランスタッフに、「子どもを見る時って、何を見ているんですか?」とストレートに聞いてみた。帰ってきた返事は、「関係性の育ちを見る」。つまり、子供同士の関係性が、どんなふうに変化してきているか、お互い良い関係を持てるようになっているか、それを見る、というのだ。

いまいちよくわからないので、 重ねて、「今みたいに停滞しているときに、どういう判断基準で声をかけるんですか?」と聞く。 「うーん、その子のパーソナリティと関係性を考慮して声をかけるかな」 ここでも、関係性という言葉が出てきた。 「◯◯は、周囲の子との関係性を見ると、ちょっと自己中心的なところがある。だから◯◯がどう周囲の子と関わればいいか考えて声をかける」

同僚が話してくれたことは、おおよそ次のようなことだ。子どもたちの間で、何かトラブルがおきる。トラブル自体の解決を目的にするより、子どもたちが自分でそのトラブルを解決する方向に向かっているかを大事にする。そして、彼らがその場その場で相手の声を聞きあえる手伝いをする。子どもというより、一人の人として見るんだ、ということを強調していた。

そんな話をしながらも田んぼの向こう側の子どもたちを見ると、まだ地ならしの作業は中断したままだ。同僚は、「どう?戻ってこられそう? そろそろタイムリミット」と告げて、「★★船長、よろしく!」とだけ伝える。それからまたじっと待つ。今回、途中で気持ちが離れていった男の子はやはり最後までつきあうことができなかったようだ。4人が3人になり、ようやく動き出すと、同僚も立ち上がり、しっかり前を見て、 「そうだそうだ、▲▲、いいぞ。◯◯ちゃん、オッケー!」 と、頻繁に声をかけ、やがて一行は田んぼのこちら側に到着した。

安心して過ごせる関係になってない…

このエピソードはもう3週間くらい前のことなのだけど、今、このときのメモを見返して、ああそうかと思い当たることが多い。6月を迎えて、問題が表面化する時期。僕が受け持つ学年でも、みんなが安心して過ごせる状況じゃないんだな、と気になることが多い。小さく固定化した人間関係、気の合わない人とのトラブル、きつい言葉の応酬も目につく。「何か言われるのが気になって…」と尻込みをしている子もいる。「学習が成り立つのに、人間関係を育てて安心・安全な場づくりをするこんなにも大切なのか」と僕はいまさらながらに思い知っている。 関係性が育っているかどうか、お互いに聞きあえているかどうか。その観点で子ども達を見て、特定の仲良しグループを超えた人間関係の中でも安心して過ごせる場づくりが全然足りていなかったのだな、と我が身を省みる。

また、何かトラブルがあった時に、後期は前期に比べてトラブルの解決自体が目的になってて、スタッフが介入しちゃうことが多いよね、と、これは先日ちょうど校長の岩瀬さんに指摘されたことだ。確かにそうかもしれない。保育スタッフの言う、トラブルを自分たちで解決する話し合いの場を整える手伝いをする、という発想が僕には足りていない。

内面を見る/関係性を見ることへの忌避感

そもそも、自分はなんで「関係性を見る」ことができないのだろう。一つには、人間の内面がわかるはずがないし、わかられてほしくないという僕の人間観がある。パーソナルな人間の内面や人間同士の関係を見る/見られる(=監視される)ことへの忌避感は、僕の中に確実に、そして根強く存在する。子供の頃から小学校の先生がクラスの人間関係を良好にしようとしてくるのが本当に嫌で、「そんなのどうでもいいから、勉強だけ教えてよ」と思っていた子だった。性格テストを解く前には、特定の性格の人物像を頭の中で作り上げ、そのキャラクターを演じて記入していた。これは、他人に自分の内面を覗かれたり、それを操作されたりすることへの嫌悪感からくる反発で、この負の感情は、現在の僕のPA嫌いにも続いている。

そういう子ども時代を過ごしたせいか、僕はもともと「子ども理解」に重点をおく教員ではなく、「人間関係には興味を持たず、勉強だけ教えたい」姿勢からキャリアをスタートしている。予備校教師のようにわかりやすく授業ができれば、生徒の名前を覚える必要はない。妻によると、僕は教員初年時にそんなことを言っていたそうだ。

今はこの時とはだいぶ考えが違うが、それでも子どもが僕に対して自分の内面を僕に対して素直に表出することにあまり期待していない(それができるって思っている人、だいぶ傲慢なんじゃないの?くらい思ってしまう)。時々、子どもと心が通じ合ったような気がして感情が揺れる時は来るけれど、それでもそれが「美しい誤解」である可能性を常にどこかで考えている。

こういう僕個人のあり方に加えて、長く勤めた前任校では、そもそも週2回しか一つのクラスに関わらない仕組みだったので、その中で彼らの人間関係を見ようとしたり、育てようとしても、無理な側面もあった。だから、「友達関係のことはごちゃごちゃ言わずに教科の授業をしっかりやるのが教師の仕事」的スタイルをとれていたのだろう。

一対一で知識を手渡すスタイル

その教科の授業のやり方にしても、「子ども集団」ではなく、「子ども一人ひとり」に働きかけようとするのが、僕のはっきりした傾向だ。個別カンファランスを軸とするライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップのやり方が僕に心地よいのも、「一対一で知識を受け渡す」のを好む僕の特性と関係する。人間関係の場の力を使って育てる、ことよりも、ストレートに「一対一で、教科の専門家としてアプローチする」ことを志向しちゃう。今でも油断するとそう。 自分のラーニング・パートナー(という制度が風越にはあるのです)になっている子とはしきりに面談したがる一方で、彼らの人間関係をどうこうということにはあまり関心がない。こういう僕の傾向をはっきり指摘してきたのは、石川晋さんである(下記エントリ)。

ライティング・ワークショップ実施中。生徒にどう働きかけるか?という問いをめぐって。

2018.09.16

この過去のエントリを読み直しても、当時の僕はやはり「人間関係に働きかける」ことへの忌避感を書いている。あのときの晋さんは、たしか僕の「一対一」志向や教科専門性で押す志向について「教育の一丁目一番地だ」とフォローしてくれた気もするのだけど、本心はどうだったのか、今ではどう考えるのか、聞いてみたいところではある。

学びの個別化の前提には、寛容なコミュニテイが不可欠

しかし、当時はともかく、少なくとも現任校の風越では、子どもたちの関係性を育てること、聞き合う関係をつくることは、不可欠だとも感じている。だって、その子が自分で自分の学びをつくろうとしても、周囲の視線を気にしてそれができないようだったら、事実上そんな選択肢はないからだ。学びの個別化が成り立つには、お互いの自由を相互承認する寛容なコミュニティが不可欠だし、それは理念や条文だけでなんとかなる世界ではない。現実の人間関係の中で、周囲の「寛容さ」をその子が実感できる必要がある。

だから、多少の嫌悪感や、「どうせできっこない」という思いはあるけど、子どもたちの内面を見ること、関係性に働きかけることを、今の僕はやる必要があるなと思っている。例えば、水曜日の保育で少しウクレレを弾いた時も、「このウクレレを弾くことって、子どもと僕の関係性づくりには役立つけど、子ども同士をつなげるにはどうしたらいいのかな」と考えるようになった。また、昨日の「読書家の時間」では屋外の芝生や森で読書をしたのだけど、「この人はやっぱりいつものメンバーでないと安心できないのかな」とか「この人は一人で居心地のいい場所を選んで読めるんだな」という視点で見ることもあった。

「観察」される側のことを思うと、そういう意図で生徒を「観察」する自分が少し嫌になる。また、そんなことをしてもどうせ人間の内面や人間同士の関係性がわかりっこないという思いも頭をかすめる。でも、僕が受け持つ5・6年については、内面や関係性を育てる意識が必要なんだとも思う。寛容なコミュニティを作る。そのために、子供達の関係性の育ちを見る。普通の公立学校の先生たちは当たり前に意識してきたのかもしれないが、長らく僕はそれが嫌でサボってきた。おそらく僕の性格や特性上、不得意なことには違いないけど、今後の伸びしろにもなるかもしれない。そう信じて、あきらめつつ、やってみよう。

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