文科大臣の「教育の強靭化に向けて」というメッセージに絡めて、岩瀬直樹さんがブログで「安心・安全な場」について書かれている。メッセージの解説に始まって、そのような学習を成立させるためにはそもそも何が必要なのかという話。良い記事なので、まずはぜひ読んでみてください。
安心・安全な場。:付け足しあり。(いわせんの仕事部屋) |
目次
大切だろうけど自信なし。「安心・安全な場」
で、岩瀬さんの言う、
まず前提条件として、教室が「安心の場(コンフォートゾーン)」になっていることです。まずはこれがスタート。教室が安全であり、安心できる場であること。自分らしくいられること。安心がなくして対話は起きないし、主体性が発揮されることもなさそう。
これは本当にそうだなあと、僕も思う。ただ、そう思えるようになったのはここ数年のことだし、じゃあ自分の授業で「安心・安全な場」ができてるかというと、そんな気は全くしていない。
わからなかった「安心な場」の必要性
恥ずかしい話なのだけど、僕は人の顔と名前を全く覚えられない。ところが、教員1年目はそれでもいい授業はできると思っていた。浪人して予備校に通っていた影響だと思うのだけど「生徒の名前がわからなくても、こちらにきちんとした知識があり、それをわかりやすく、時々冗談も交えて面白く話ができれば、いい授業はできる」って。で、実際、そこそこいい授業をしていた気になっていた。
こんな調子だから、「安心な場づくり」なんていう意識は微塵もない。最初に「安心・安全な場が大事」という人に出会った時には、「何言ってるんだろう?」状態だった。失礼だけど「そんなよくわからないことを言う前にもっと本を読んで勉強したら?」くらい思ってたと思う(笑)。
少しずつわかってきた、その必要性
そんなどうしようもなく鈍い僕が、それでも何年かキャリアを積んで、やっと少しずつわかってきたわけ。学校の教室という、「学習の空間と生活の空間が一体化した場所」の特殊性とか、そこに張り巡らされた教師と生徒の、そして生徒間の複雑な権力関係の生きづらさとか。特に進学校では、基本的には試験を通った同質な生徒が集まるだけに、他の生徒と比較した時の「優劣の意識」が強く働いて、それが結構色々な場面で作用する。劣等感を感じるほど気力もなくなり頑張れなくなる生徒もたくさん見てきた。
そういう経験を経て、もちろん生まれ持った優劣は厳然としてあるんだけど、大村はまが言う「優劣のかなた」で全員が「学びひたる」には、「安心な場」を作らないといけないんだ、ということがようやくわかってきた。そうじゃないと、教室はただの「強い」生徒のための場になっちゃう。特に生徒の活動の自由を保証するような授業では、本当に「強者の自由」になっちゃう。
で、でも感覚がつかめない…
今の僕は自由な校風の学校に勤めているので、その「自由」が「強者の自由」にならないためにも、「安心な場であるか」ということを気にするようになった。だけど、もともと鈍い僕にはこれがなかなかよく分からない。
勉強会の仲間に、繊細な身体感覚で教室の雰囲気を感じとれる人がいる。僕の授業を見て、「あの発言で空気が柔らかくなった」とか「もっと背中で教室の雰囲気を見る感じで」とか言ってくれるのだけど、正直言って、僕はそういう感覚的な表現がことごとくわからない。まあ最初は、というか一緒の勉強会やってても何年間かずっと「また怪しげなことを言うなあ…」とか「だって背中に眼はないし!」とか思ってた。
今はだいぶ考えも変わって、「自分にはよくわからないけど、そういう身体感覚は確かにあるんだろうな」と思うし、そういう雰囲気を「つかめる」人を羨ましく思う。ただ、僕にはやっぱり難しいみたい。でも、「自分にはその感覚がないから無理」ってなるとそこで話がストップしちゃう。
場の成立にはどんな条件が必要なの?
そうすると、やっぱり「どんな条件を満たせば安心・安全な場なのか?」ということが気になる。岩瀬さん含めて、「こういう風にしたら自分は安心・安全な場を作れましたよ」ということを教えてくれる人はいる。リンク先の記事の「信頼ベースの学級ファシリテーション」とか。それを参考にするのもいい。中には自分のやり方で間違いない!と自信満々な人もいる。教育書には「魔法の」とか「絶対成功する」みたいな言葉がタイトルについたそんな本がいっぱいあるでしょう? (まあ、編集者さんのせいかもしれないけど、ああいうタイトルはすごいよね…)
でも、実は僕自身は、そういう名人先生のやり方を丸ごと踏襲することにはあんまり興味がない。それだとなんか面白くないなと思うから。それよりも、名人先生の教室にどういう「場」が成立しているのか、複数の先生たちの「場」に共通点はあるのか、成立に寄与している要素は何か、ということに興味がある。モヤモヤしたよくわからないものを、自分の目にも見えるようにしたい。
「安心・安全な場」を記述する研究はある?
話が飛ぶようだけど、イギリスでは、1990年代以降、「対話が成立している空間」を記述しようという一連の研究がある。ここでは、生徒の発言の談話分析とか、ノンバーバルな情報(身振り、笑いなど)の分析を通じて、「対話が成立している空間」を記述しようとしている。一番有名なのはMercerというケンブリッジ大の先生で、3つの会話の概念を使って談話を分析して対話的空間の成立を記述しようとしている(詳しくは以下の本を参照)。
これと同じように「安心・安全な場」を記述する研究があったらいいなあと思う。量的に測定するのでも、インタビューや観察から質的に記述するのでもいい。すでにこういう研究、あるのかな? もしご存知の方がいたら教えてもらえませんか?
そんなの、できっこない?
「そんなの、教室の雰囲気なんだから言葉にできるわけないじゃん!」
そりゃそうでしょう。でも、言葉にしないで「わかる人はわかるんです」という秘儀にしちゃったり、その結果、その名人先生の「信者さん」をたくさん作っちゃうよりは、「永遠のたたき台」でいいからきちんと研究の言葉でそれを記述することは、とても意味があると思うんだけどな。日本の(特に小学校の)先生の学級経営の技術って、世界的に見ても高いんだろうなと思うので、そこでの現象を記述して、もし英語で論文にできたら、他の国の人にも参考になるかもしれないし。
まあ、他の国の人はともかく、僕自身のために、そういう研究があったら読んでみたいな、というつぶやきでした。