人種差別体験授業「青い目茶色い目」を見た

今月の勉強会での話題から。先日、人種差別を体験を通して教えるという有名な教育実践「青い目茶色い目」のビデオを初めて見ることができた。クラス全員を青い目と茶色い目の二つのグループにわけて、一方にもう一方を差別させ、さらに翌日には立場を入れ替えて同じことを行うという授業だ。もうご覧になった方も多いかもしれない。You Tubeでも見られる模様。

 ビデオは、その授業を行ったジェーン・エリオット先生のところに卒業生が集うところから始まり、過去の記録映像を見て、回想するところまで続く。あの授業が、少なくともその場に集まった生徒たちの心に強く印象づけられたことがわかる。エリオット先生も、自分が学んで欲しかったことを生徒が学んでくれたと振り返っている。

勉強会の場では、この授業を見て肯定的な人、否定的な人にわかれていた。僕ははっきり否定派だった。「いい授業だけど、ちょっと強烈すぎて現代の日本でこれはできないよね」みたいな理由じゃなくて、仮にできようが周囲から文句を言われなかろうが、根本的にこの授業が嫌い、というタイプ。良くも悪くも衝撃的な授業ではあるので、少し落ち着いてもう一度見たけれど、やはり感想は変わらなかった。

この授業の背景には、僕が実感できない様々な文脈があるのだと思う。人種差別が実際に起きていることはもちろん、それを学ばないといけないタイミングであったこと(最初のこの授業はキング牧師の暗殺の後だったそうだ)、それなのにこの町には白人がほとんどという限界。そうした中でエリオット先生が考えた教授法が、教室の中に新たな差別を擬似的に作り出し、そこから強烈な体験をしてもらって学ぶことなのだし、 集まった卒業生の反応を見ても、それは一定の成功を収めたのだとは思う(もちろん、好意的な人だけが集まったのだろうし、ドキュメンタリーなのでその方向で編集されている)。その点はぼくも割り引いて映像を見ないといけないなと思っている。また、この授業がチャレンジングで、その意味で「面白い」授業であることは僕も認める。差別をする自分自身と向き合い、差別される側を身を以て体験する機会になることも認める。

でも、僕はこの授業が嫌い。というのも、この授業は「差別はいけない」というメッセージだけでなく、同時に、「あなたの隣人は、ちょっとしたきっかけがあれば、あなたに何の落ち度がなくたって、すぐにでもあなたを攻撃する。あなたも隣人に対してそうする」ことを伝えるものにもなってしまったからだ。だって実際、番組の中の子どもたちのふるまいはその通りなんだから。これまで同じ時間をすごしてきた同級生だって、あなたが親友だと思っていた隣りの席の心優しい子だって、ちょっと教師に役割をあてがわれただけで、その役割通りにひどく残忍なことを自分に対してするようになる。それどころか、それに喜びを覚える人さえでてくる。そして、あなた自身も同様に、他人に対して攻撃するようになる。

そのあからさまな事実が明らかになったあとでは、「だから差別はいけない」という教訓よりも、「隣人はこんなにも簡単に自分を裏切って攻撃してくる」「自分はこんな簡単に人を攻撃できる」という事実のほうが、いっそう重くのしかかってくる子だっているのではないだろうか。そう思わないほうが鈍感すぎるとさえ思う。そう思ってしまった子は、明日からこの同じメンバーを、そして自分自身を「信頼」するふりをしてやっていけるのだろうか。人間は基本的には敵同士で、いつどんなきっかけで自分が攻撃されるかもわからないんだと知ってしまったその子は。

百歩譲って、この授業が「初めて出会った人同士の、それ以前も以後も同じコミュニティーで過ごすことがない人同士」で行われたのであれば、まだ良いのかもしれない。また、権力関係の外で、参加者の自発的な意志で行われたのなら。

でも、この授業はずっと同じ時間を過ごしてきたクラスの中で行われたのだ。しかも、小学校においては絶対の権力者と言っていい教師が、形だけ生徒の合意をとりつけて(実際には、この実験から離脱する権利など小学生にはなかっただろう)。そしてその結果、同じコミュニティーで過ごしている子どもたちに、不信の種、しかもきっと真実に近い不信の種を撒いてしまったかもしれない。

そんなことはない、最後に教師がフォローを入れて、そのようなことがないようにストーリーを完結させれば大丈夫だという先生がいたら、そこまで他人の心を自分のシナリオどおりにコントロールできると思っているだなんて、なんて傲慢な人なんだと思う。そう、エリオット先生は、とても傲慢な人。それが僕の第一印象だった。そして僕はこの人が嫌い。一度だけでなく、二度目に見ても、僕の感想は変わらなかった。

この記事のシェアはこちらからどうぞ!