忙しい日々であまり勉強できていない中の雑談気味エントリ。今日は、勤務校の国語科主催で、広瀬友紀先生の講演会を開きました。「ちいさい言語学者の冒険」の著者の先生です。この本がとても面白かったので、読んですぐに講演の依頼をして、広瀬先生の在外研究を経てようやくの実現でした。
子どもは大人よりもよほど「論理的」
まず、子どもは大人よりよっぽど論理的!ということ。「理由はわからないけどそういうもの」として言語の運用を覚えてしまった大人に比べて、子どもは言語運用のルールを推測して、それを拡張して適用しようとする。その結果、たとえば「は」の濁音化が何なのかわからなくなる(「は」の濁音化は「ば」だと、「は」と「ば」は発音の時に使う部位が異なるので、本来はペアとしては相応しくないのです)。それは「間違い」というよりも、「丸暗記」ではなく「ルール」を見つけようとした結果。
また、尺度含意と言われる問題においても、子どもは論理的なんです。500円持っている時に「僕は100円持っている」と表現することへの許容度も、子どもの方が高いそう。これは、論理的には間違っていない。でも、大人は、「僕は100円持っている」と言われたら、「200円はない」ことを含意していると思ってしまいますよね。
さらに、7歳くらいまでの子どもは言葉の「裏」を読んだりせず、表現された通りに理解するとか。「お嬢さん、ピアノ上手になりましたね」と隣人に言われたとき、子どもはその通りに受け止めます。でも、大人は「いつもうるさくてすみません」と返事をするかもしれません。人間は、成長に伴って次第に「グライスの会話の公理」に従って、発言の裏の意図を読むようになるのだそうです。
こうやってみると、子どもの方がよほど「論理的」なんですね。僕たちは学習してどんどん「非論理的」になっていくわけ。これは、人間のコミュニケーションが何なのかを意味しているようで面白いですね。
「間違いの訂正」は有効ではない?
言語教育の観点からは、「否定証拠はあまり効果的ではない」という話も興味深いものでした。否定証拠とは、子供が言い間違いをした時に、たとえば親が「それは間違いだよ」「そうは言わないよ」と訂正すること(直接的な訂正ではなく、やんわりと大人が言い換えることも含む)。直感的には訂正しないと語彙が伸びないのではと思うし、僕もよく子どもの発言を訂正するけれど、言語学的には肯定証拠(こういう言い方もあるよ)はともかく、否定証拠(その言い方は間違いだよ)はあまり効果的ではなく、にもかかわらず人間が言語を「正しく」習得していくことは、大きな謎なのだそうです。これ、国語教師としては興味深い現象ですよね。ちょっと僕が単純化しすぎて理解しているかもしれないから、またちゃんとお尋ねしてみよう。
初等・中等教育に言語学の知見をどう活かすか
教員目線で気になるのは、広瀬先生がご専門の言語学の知見を、初等・中等教育にどう活かせるのか、ということ。先生が指摘されたのは、初等・中等教育段階で、いかに言語への「気づき」を促すか、ということでした。その視点だけ、下に上げておきます。
- ことばとは何か(客観的に見る)
- どうしてこうなっているのか(分析的思考)
- どのように働いているのか(表現効果・身を守る)
- ことばで楽しむってどういうことか(言葉の芸術)
- 日本語の特徴とは(相対的に見る)
- じゃあ日本語以外の言語では(相対的に見る)
先日読んだ「3000万語の格差」は、幼い子どもの言語環境を整える話でしたが(下記エントリ参照)、こういう豊かな言語環境でレディネスを作って、初等教育・中等教育でどういうことばの教育をしていくのか。なかなかやりがいのある課題ですね。