[読書]最適じゃなくてもいいのかも?授業づくりネットワークNo.40『個別最適な学び』

今回のエントリは年末年始休みの読書から。授業づくりネットワーク編『個別最適な学び』を読んだので、その感想をここにメモしておきたい。

目次

「個別最適な学び」をめぐる状況を知る一冊

まずありがたかったのは、本誌のいくつかの記事のおかげで、「個別最適」という言葉をめぐる今の状況を理解できたことだ。この言葉が出てきた背景やその懸念については武田緑さんや武田信子さんが書かれていたが、そもそもが経産省の「未来の教室」事業や文科省のGIGAスクール構想とセットで出てきたこの言葉は、「教育上の論争ではなく、むしろ経済上の改革と呼ぶべき」(p30)背景を持つこと。そして、その中で生まれた文科省の中央教育審議会でのビジョン「令和の日本型学校教育」においては、「個別最適な学び」は「協働的な学び」とともに一体化して(ということは、協働的な学びとはそもそも別物なのだが..という前提で)子どもの学びの柱となる、とされていること。そしてさらに、この「個別最適な学び」が良くも悪くも「AIドリル」という言葉で象徴される「指導の個別化」と、子どもの興味関心に応じた学習活動や課題にとりくむ「学習の個性化」にわかれること。教育の世界にいる人間の基本なのかもしれないが、僕はこういう動向には疎いので、まずこの言葉の使われ方を知るのにたいへん勉強になった。

本誌では、こうした多義性を持つ「個別最適な学び」について、その概念を整理する論考あり、批判的に捉える論考あり、これこそが個別最適な学びを実現する授業だと提案するものありと盛りだくさんの一冊となっている。個別最適な学びについて考えたい人にとっては参考になる記事がたくさんある。ただ、どの論者も、(推進するにせよ批判的にとらえるにせよ)この言葉の多義性のどこかに重点を置いているので、そこをいちいち整理しながら読む必要があるし、特に実践報告パートになると、それぞれの授業者がどの前提で個別最適だと考えているのかを行間から考えながら読むことになる。

読むとなんだかわからなくなる面も…

しかしその結果として、読めば読むほどよくわからなくなるというか、読み終わった後には「要は普通に授業頑張ればいいんじゃないの?」という気になってくるのも、正直なところだ。たとえば僕で言うと、リーディング・ワークショップやライティング・ワークショップは間違いなく「個別最適な学び」の文脈で語れる実践だが、それをやっていれば良い授業だとは当然ならない。一人ひとり違う本を読むことで孤立化に陥ることも、カンファランスがamazonよろしく「あなたは次はこれを読むべき」「この技をつかって書くべき」というリコメンドになってしまう危険もあるのだから。だとしたら、「この授業は個別最適な学びになる授業だろうか?」を問うことにどれだけの意味があるのだろう。従来の授業を振り返る言葉でも、同じことは十分に考えられるはずだ。

近代国家の制度としての学校(公教育)がそもそも「国民化」「社会化」の装置である以上、学校のどんな授業にも「指導の個別化」(あえて意地悪く言うと、馴致の効率化)を追求する視点は入らざるをえない。同時に、目の前の子どもによって起きていることは違うのだから、「学びの個性化」も勝手に起きている。どちらも、極論のような当たり前の話である。でも、だとすると、「個別最適な学び」という言葉をわざわざ使わないとできない議論ってはて何だろう、とも思ってしまうのだった。

というわけで、トータルとしては、主に僕の考えの整理がおいつかないせいだとは思うが、ちょっとすっきりしない面もあった。ただ、個別には面白いなと思ったり、深く頷いたりした文章はいくつもある。印象に残った箇所を引用しておこう。

「厳しい学習」と「柔らかい学び」

まずは、長年「自由進度学習」を実践されてきた竹内淑子さんの言葉。「指導の個別化」の文脈では黙々と個別課題をこなすイメージがあるが、そのような自由進度学習を展開されていた竹内さんが、「外国籍の子が全体の3分の1を占める」I小学校で、そのスタイルを大きく変えた話が興味深い。

緒川小やU小では、課題に黙々と一人で頑張って進んでいくという、ある意味厳しい学習だったと思います。でも、I小の自由進度は、子ども同士が教え合ったり関わったりしないと進まない状態でしたから、学ぶ厳しさではなく、もっと柔らかい学びになっていました。ズルする子とか手を抜く子も見逃すと言いますか、もうそうしないと成り立っていかない状態だったんです。そこで、半分遊びみたいに見えるものでも、本人はその学習に関係あると思って楽しんでやっているという姿を見て、これでいいんじゃないか、ひょっとしたら、これって真に意味のある学びなんじゃないか、と思ったんです。(p3)

ここで言う「厳しい学習」、僕のライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップもそうなりがちだなと感じている(僕はもともと「鍛える」系の人だ)。その僕のやり方にうまく乗れない子たちが、ここに書いているような、「半分遊びみたいに見えるものでも、本人はその学習に関係あると思って楽しんでやっている」感じで動けるとしたら、それはどんな姿だろう、とイメージした。そこに、僕の授業をもっと変えていくヒントがあるはず。

「最適じゃなくてもいいじゃん」

2つ目は、誌上レポートの高橋尚幸さんの言葉。ここでは「指導の個別化」を念頭においた次の発言に笑ってしまった。もうここで特集終わりにしていいのでは、とも思ったほどだ。

まず、「個別最適な学び」ってあるのかわからないです。それに最適じゃなくてもいいじゃんって思うのです。「やってみたけど、今日は学び方がイマイチだったな」とかそういうことがあっての学びなのに、紆余曲折とかできないとか失敗するとかそういうことが無い学びってどうなのでしょう。「困ったな」「できないな」「わからないな」とかを勉強から無くしましょうみたいなことを「個別最適化」という言葉から感じるんですよね。(p16)

僕自身はカンファランス・アプローチを取る人で、基本的にカンファランス・アプローチは「この子にとっての最適と思われる働きかけ」をしようとする。今その子に声がけするかしないか、するならどうするか…。しかし、このカンファランス・アプローチは下手すると「こちらの考える最短のベルトコンベアに子どもを乗せようとする」方法にもなりかねないし、子どもも(そして大人も)追い詰めかねない危険もある。だからこそ本人の意思を慎重したり、教師もそこで書き手として立ったりということが大事になるのだが、同時に、常に(子どもが考えたものであれ、大人が考えたものであれ)「最適じゃなくていいじゃん」と思う構えは大事だよなあ。

なお、この高橋さんも先述の竹内さんも、国語・算数という複数教科を同時に進めている点も興味深かった。子どもの自由度を高め、同時に進度差の顕在化を防ぐメリットは竹内さんが鼎談で語られているが(p5)、たしかにと頷ける。僕のように国語教師にこだわってしまう人間にはできないアプローチで、でも風越でこれを実現するとしたらどうなのだろう、という想像もかきたてられた。

「ゆるくてアツい」

最後に印象に残ったのは、石川晋さんとのインタビューで「けテぶれ」の葛原祥太さんが答えていた「ゆるアツ」(p118)という言葉である(正確に書くと、ちゃんとした意味は、このインタビューの藤原友和さんによるグラフィックレコーディングに載っていた)。

「ゆるアツ」は「ゆるくてアツい」ということ。「ゆるさ」は、「あなたは存在しているだけでいいじゃない」という承認や肯定の言葉であり、「アツさ」は自分を変えて前に進めようとする変化を促す言葉である。葛原さんの本を読んだことはないのだが、このインタビューを読む限り、葛原さん自身が「ゆるい」方なんだろうな。けテぶれ通信を一学期に出しまくって二学期はパタリとやめたり、ご自身も計画をたてるのが嫌いだったり、いずれも面白くて大事なエピソードだった。こういうゆるさが「けテぶれせんでも死なないよ」という子どもへの大事な言葉がけにもつながるのだろう。

個別最適な学びにはいい加減さが大切?

「柔らかい学び」「最適じゃなくてもいいじゃん」「ゆるアツ」「けテぶれせんでも死なないよ」…本書を読んで、特に深く考えずに印象的な言葉をあげたら、結果的にいずれも似た言葉になった。今の僕の自分への課題意識がこういうチョイスに現れているんだろう。そして同時に、「個別最適な学び」には、こういう「いい加減さ」が大切だよな、とも思う。「どの子にも自分に合う学び方で学んでほしい」「どの子にも自分らしい学びを作って欲しい」という教育者の願いは、愛情深いかもしれないが、一方で子どもや教師自身を強力に追い詰める武器にもなる。まして「最適」ともなればなおさらだ。もしも教師がみんなはりきって「個別最適な学び」を突き詰めると、その先にあるのは天国なのか地獄なのか。最悪の場合、教師は目の前の40人生徒全員の「最適な学習経路」を見つけ出すという不可能なミッションを課せられ、生徒は生徒で常に自分の学習をコントロールし自律的に学ぶことを強いられかねない。

もともと僕は、理念としての「最適」を追求する、永遠の修行っぽい「苦しさ」が好きな人でもある(言葉にすると完全にマゾですなあ…)。そういう僕が「個別最適」を求めた時の危険性は、それなりに認識しているつもりだ。だから、個人的には、「個別最適な学びを頑張ろう」というより、頑張らないためのこれらの言葉を意識しながら、明日からの授業を作っていこう、そう思えた読書体験だった。

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