[読書]「読書とひきかえに何も求めない」は可能か?ダニエル・ペナック『ペナック先生の愉快な読書法』

新しい一年を前に、初心?に帰るべく、ダニエル・ペナック『ペナック先生の愉快な読書法』を再読した。前に読んだのは旧版『奔放な読書』で、しかももう10年近く前のことになる。「再読」と言っても、新たに教えられることの多い読書。同時に、「読書を教える」ということの矛盾を、ユーモアをまじえつつ辛辣に書いた1冊でもある。「教える」ことを職業とする身としては、単に「面白いね」だけですまされない、考えられる1冊だ。

教室でどう扱う?「読者の権利10か条」

2017.05.16

ハッとする言葉の数々

ペナックのこの本は、「読者の権利10か条」とともによく知られているが、評論ではなくエッセイ、しかも物語調のエッセイである。

「本を読む」という動詞は、「本を読みなさい」という命令形には耐えられないものだ。(p7)

という、親や教師ならドキッとするだろう寸鉄人を刺す一言にはじまり、やや戯画化されたエッセイの数々は、若い人たちと本をつなぐ役割の自分にとっても、考えさせられる場面が多い。例えば、

わたしたちが読んだ一番美しいものは、たいていは好きな人のおかげである。(p96)

という一言は、教育の文脈でも実感を持って共感できるものだ。最終的には、教師のおすすめよりも子ども自身が好きな人(多くは友だち)の影響力のほうがずっと大きい。去年、ぐっと読書に入り込んだ子たちを見て、そう感じることが多かった。一人ひとりにアプローチするよりも、子ども「たち」にアプローチしたほうがいい、という考え方にも、かなり理がある。

「読書と引き換えに何も求めない」

ただ、もちろん本書の言葉はすべて「うんうん」と頷いて読めるわけではない。「わかるけど…」とうっかり反論をしたくなるものもあり、むしろそちらに出会うほうに本書を読む価値がある。その極地が、次の文章だ。

読書と和解するための唯一の条件。それは読書と引き換えに何も求めないことである。まったく何も求めないことだ。本のまわりにどんな予備知識の城壁も築かない。いかなる質問もしない。どんな宿題も出さない。ページに書かれた言葉以外に一言も付け加えない。価値判断をしない、語彙の解釈をしない、テクストの分析をしない、伝記的情報を求めない…「本の周辺のことをしゃべる」ことを絶対にしない。(p146)

これは簡単に言ってしまえば、教育の論理と読者の権利の相克の問題だろう。僕は以前にも下記エントリでこの問題について書いている。しかし、「唯一の条件」と言われているものを守っていないなんて、僕は以前読んだはずのこの本から何も受け取っていないのだな、と苦笑する。

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さて、「読書と引き換えに何も求めない」が僕にできるだろうか。読んでいる子にカンファランスをし、読んだ本について共有することを求め、読書ノートの提出を求めている僕にはできそうにないな、と率直に思う。ただ、僕のやっていることが本当に「力をつけるため」といい切れるのかどうかが難しいところだ。何をもって「基本的な力」と考えるかにもよるが、「読書を楽しめること」が一番の基本的な力であることは、僕にも明白に思えるからだ。だって、楽しくなければ続かないし、自分で時間をつくって読もうともしないだろうから….。力と楽しさは対立項ではなく、むしろ楽しいことが力をつける第一条件である。だとしたら、そういう僕の考えと、僕が実際にやっていることの関係を、どう捉えればいいのだろうか。ペナックはここにきっとつっこんでくるだろう。

ペナックと自分のあいだの通路と距離

約10年ぶりの本書への再訪は、こういう記述に立ち止まりながらの再訪だった。そして、読者の権利10か条の最後の権利「黙っている権利」の記述が、人はなぜ本を書き、読むのかという文章で、とびきり素晴らしかった。おそらく以前には気づかなかった文章である。

人は生きているから家を建てる。だが、いずれ死ぬことを知っているから本を書く。人は群居性があるから集団で住む。だが、自分の孤独を知っているから本を読む。この読書は他の何ものにも代えがたい仲間。読書に変わる仲間はいない。読書は人の運命について何一つ決定的な説明はしてくれないが、人生と人の間に、目のつんだ共謀の網を織り上げる。たとえ人生の悲惨な不条理を教えるとしても、生きるという逆説的な幸福を語る、ごく小さな、密かな共謀だ。だからわたしたちが読書する理由は、わたしたちの存在理由と同じくらい奇妙だ。この親密さについてクレームをつけるよう、委任される者は誰もいない。(p202)

僕はここに書いていることを完璧に理解しているとは言わないが、非常な共感をもって読める一文である。読書は、自分の人生について合理的な説明はしてくれない。しかし、様々な物語の登場人物の人生を通して、不条理なことも多い人生と自分との付き合い方と、その中で生きることの幸福をも教えてくれる。それは、大上段に語る「教え」のようなものではなく、登場人物の生を提示するだけという、とてもちいさな、ささやかなものだ。でも、そうやって人生の網の目を細かに張り巡らしていくことが、それこそ、孤独である人間にとってどんなに安心な網(=セーフティネット)になることだろう。僕自身、読書をそのように捉えており、その点で、僕とペナックのあいだには間違いなく通路がある。

しかしペナックは、上記の文章のあとに、次のように続けているのだ。

私に本を読む気を起こさせてくれた数少ない大人は、それらの本の優越性を認めて身を引き、本を読んでわたしが何を理解したかを質問しないように十分気をつけてくれた。もちろん、彼らにわたしは自分が読んだ本のことを話したものだ。(p202)

本を読んだ子どもたちに、何を理解したのかを質問しないように気をつけること。おそらくそれが決定的に大切なのだろう。でもいまの自分には、それはできていない。この、ペナックと自分のあいだにある通路と、でも確実に存在する距離をどうとらえるか。その問いにちゃんと向き合いながら、新年度の「読書家の時間」に取り組んでいこうと思える1冊だった。新年度の最初に読んでよかった。読書教育に興味のある方にはもちろんおすすめです(読んでいる人も多いと思うけど….)。

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