どこまで介入していいか? リーディング・ワークショップと「読書の倫理」

三郷市立彦郷小学校の学校図書館を活用した読書推進活動が紹介され、一部で「読者の秘密の侵害」との批判を浴びている。そのためか、「誤解」をとく記事もアップされた。

目次

1年間で1人あたり142冊もの本を読む埼玉県三郷市立彦郷小学校「社会問題の根幹にあるのは読書不足」

http://media.housecom.jp/misato/

三郷市の小学校の読書促進策に批判殺到「担任が児童の読んだ本を把握し個別指導」って本当? 学校「誤解を招いて申し訳ない」

https://news.careerconnection.jp/?p=56027

僕は、生徒の貸し出し記録に直接アクセスできる学校図書館司書ではない。しかし図書館運営に関わる司書教諭であり、さらに「生徒の読んだ本を把握し個別指導」をする授業=リーディング・ワークショップを、図書館を舞台に展開している。それで、今回の件で、リーディング・ワークショップと「読書の倫理」の問題について考えざるをえなかった。資料メモ代わりに書いていこう。

2つの論理のぶつかり合う場所、学校図書館

まず、僕の認識の根底にあるのは、「学校図書館」とは、学校「図書館」であると同時に「学校」図書館である、つまり、学校図書館は、「図書館」の論理と「学校」の論理という2つの論理がぶつかり合う場所だ、という認識である。

学校における「図書館の論理」を代表するのが「図書館の自由に関する宣言」で、今回の事例でも、この宣言の「第3」にあたる「図書館は利用者の秘密を守る」という条文がよく引用されていた。この秘密は「読書事実」(生徒がどんな本を借りたか)だけでなく「図書館の利用事実」(生徒が図書館で何をしていたか)も含まれる(以下、太字はあすこま)。

図書館の自由に関する宣言(日本図書館協会)

http://www.jla.or.jp/Default.aspx?TabId=232

  • 読者が何を読むかはその人のプライバシーに属することであり、図書館は、利用者の読書事実を外部に漏らさない。ただし、憲法第35条にもとづく令状を確認した場合は例外とする。
  • 図書館は、読書記録以外の図書館の利用事実に関しても、利用者のプライバシーを侵さない
  • 利用者の読書事実、利用事実は、図書館が業務上知り得た秘密であって、図書館活動に従事するすべての人びとは、この秘密を守らなければならない。

一方、日本の学校図書館には「学校図書館法」という根拠法があり、その第二条には次のように書かれている(太字はあすこま)。

学校図書館法

http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/dokusyo/hourei/cont_001/011.htm

第一条
この法律は、学校図書館が、学校教育において欠くことのできない基礎的な設備であることにかんがみ、その健全な発達を図り、もつて学校教育を充実することを目的とする。

(定義)
第二条
この法律において「学校図書館」とは、小学校(盲学校、聾学校及び養護学校の小学部を含む。)、中学校(中等教育学校の前期課程並びに盲学校、聾学校及び養護学校の中学部を含む。)及び高等学校(中等教育学校の後期課程並びに盲学校、聾学校及び養護学校の高等部を含む。)(以下「学校」という。)において、図書、視覚聴覚教育の資料その他学校教育に必要な資料(以下「図書館資料」という。)を収集し、整理し、及び保存し、これを児童又は生徒及び教員の利用に供することによつて、学校の教育課程の展開に寄与するとともに、児童又は生徒の健全な教養を育成することを目的として設けられる学校の設備をいう。

(設置義務)
第三条
学校には、学校図書館を設けなければならない

そもそも、学校に学校図書館があるのもこの法令があるからであり、そこでは学校図書館は「学校教育において欠くことのできない基礎的な設備」として位置づけられ、その目的も「学校の教育課程の展開に寄与するとともに、児童又は生徒の健全な教養を育成すること」なのである。

「健全」という、僕でさえあまり好きではない言葉があることでも明白だが、ここにあるのは、「図書館の論理」ではなくて「教育の論理」だ。そして、普遍的な理念を扱っているとはいえ、形式上は「一団体の私的な宣言」である「図書館の自由に関する宣言」と違い、こちらは学校図書館の根拠法である。これをもとにする限り、学校に図書館があるのは教育上の効果を期待されているからであり、教育効果を一切考慮に入れずに、利用者の「知る権利」だけを根拠に学校にも図書館を置くことを正当化するのは、僕は難しいのではないかと思う(それは第一義的には、学校ではなく公共図書館の仕事である)。

「どちらが正しいか」では解決できない

学校図書館は、この2つの論理がぶつかり合う場所である。どちらか一方の論理だけで通そうとすると危険だ。教育に効果があるからといって読者のプライバシーをどこまで侵していいのかには慎重な検討が必要だし(僕は生徒の貸出履歴を無許可で見るのはアウトだと思う)、逆に、基本的には読者のプライバシーを尊重するとはいえ、図書館での生徒の利用実態から彼/彼女が抱える問題や困難が垣間見えたとき、教員との情報共有が必要な場合もあるだろう。それぞれのケースの「何を」「どの程度」「どのように」は、結局は当事者間で相談し、実践し、振り返らないといけない

学校図書館におけるプライバシー保護の問題

そのような判断に役立つものとして、今回、ツイッターで山口真也先生の論文と講演のPDFが紹介されていて、とても勉強になった。生徒の読書や図書館利用のプライバシーについては、学校司書でも判断が分かれるケースもあるし、同じ学校の教員が「外部」にあたるかどうかという議論もある。原則論だけを唱えれば万事解決というような単純な問題ではないことが、改めてわかる。

山口真也「学校図書館における児童・生徒のプライバシー保護-読書記録の取り扱いをめぐって 」

http://www.okiu.ac.jp/sogobunka/nihonbunka/syamaguchi/yamaguchiprivacy.pdf

山口真也「「自由宣言」にみる読書指導とプライバシー保護の関係-沖縄県中部学校図書館協議会総会・講演記録-」

http://www.okiu.ac.jp/sogobunka/nihonbunka/syamaguchi/yamaguchi2009-3.pdf

リーディング・ワークショップの正当性と倫理的問題

さて、ここからは僕自身の話。僕の実践するリーディング・ワークショップは、国語の授業として図書館で読書活動を行い、しかも、授業中に僕が生徒の間をまわって、個々の読書傾向や好みを把握したり、お勧めの本を紹介したりする。ここには、どんなに控えめに言っても、倫理的な問題の気配がある。

そこで、まず「なぜそのような授業をするのか、そこにどんな正当性があるのか」を論じ、ついで「そこではどこまで生徒のプライバシーへの干渉が許されるのか」を考えたい。

「自由な読書」ではないリーディング・ワークショップ

下記エントリでも書いた通り、リーディング・ワークショップは「自由な読書」ではない。「教師の介入をともなう授業」である。僕は生徒にどんな本を読んでいるか聞くし、それがその子の興味やレベルに合っているか確認するために質問もするし、次に読む本を勧めたりもする。授業の後半には、生徒が今日読んだ本を紹介しあう「共有の時間」も設けている。

リーディング・ワークショップは「朝の読書」と何が違うの?

2017.09.17

リーディング・ワークショップをする理由

なぜそのような授業をするかというと、単純に「読む力をつけるため」である。読書が読む力をつけるための強力なツールであることは、これまでも様々な研究で指摘されてきた。

[読書] 読書教育の重要性と方向性を明確にする一冊。猪原敬介『読書と言語能力』(1)読書教育編

2016.09.21

[読書] 個別読書の研究についての基礎資料!Gambrell, et al. (2011) The Importance of Independent Reading

2017.10.31

[資料紹介] 長時間の読書は学力に結びつかない!? 読書活動と学力・学習状況調査の関係に関する調査研究(2009)

2017.10.28
しかし、このメリットは、日本では「読書はいいもの」という漠然とした印象論程度でしか受け入れられておらず、授業内で行う意義としては、あまり強調されていない。それは、日本では「読書」が「国語の授業」の枠から追い出され、授業ではもっぱら教師が指定した教材の「読解」をやってきた経緯があるからだろう(下記エントリ)。

なぜ違う?いつから違う? 国語の授業の「読解」と、日常の「読書」。

2017.01.06
また、この「読解」と「読書」の二分法が、読書といえば個人の自由なものという印象を作り、学校現場で教師が読書に介入することへの拒否感を強めてきたのかもしれない。「学校での読書指導」への強い拒否感は、それこそ学校の外で自由な読書を楽しんできた読書家の方々に少なくない反応である。

学校は読書に関わって良いか?

しかし、僕は「読書には学校が介入してはいけない」という立場はとらない。もし学校が介入しないとすると、その子の読解力の形成における家庭環境の影響が相当大きくなるからだ。それを示す研究結果は少なくない。

[資料紹介] 就学前の読み聞かせは小学校卒業時の読解力に影響する?

2018.06.02
公教育の一般福祉の原理から考えて、生まれに関わらず全ての生徒に一定程度の力能(ここでは「読む力」)を保証しようとする時、義務教育段階ではやはり学校が読書に介入することが正当化されると思う。また。高校生だって、ほとんど全く本を読まないという現実を前にした時、彼らが大学で求められる読解力や読書量とのギャップを考えた時、学校で何らかの読書指導があって良いと考える。

読書教育の課題は高校生の「読書クライシス」にあり。

2017.01.08
もちろん生徒が学校の外で何をしようが、それは生徒の自由だ。必要な宿題などを除けば、生徒の私生活への介入を教師は控えるべきである。だからこそ、生徒の読む力を養成する効果的手段である読書を、学校の中で推進すべきなのだ。授業中に読書時間を確保するリーディング・ワークショップは、「読書という個人的趣味への学校権力の介入」というより、あくまで「公教育における学力形成を目的とした授業」なのである。

リーディング・ワークショップと生徒のプライバシー

しかし、リーディング・ワークショップにはやはり倫理的問題がある。リーディング・ワークショップにも色々とあるので、以下は、あくまで「僕の授業における」という話になるが、簡単にいうと、リーディング・ワークショップでは、生徒の読書の秘密が、十分には守られない。具体的に、次のような場面で倫理的問題が生じ得る。

  1. 生徒は、周囲に生徒がいるところで読書しないといけない
  2. 生徒は、教師に自分の読書について話さないといけない
  3. 生徒は、「共有の時間」で、その日自分が読んだ本について紹介しないといけない

周囲に生徒がいるところで読書する

まず、生徒は図書館で国語の授業内で本を選んで読むので、何を読んでいるのかは、ある程度他の生徒に知られてしまう。これは、例えば本にブックカバーをかけても、自分が読んでいる本を知られるリスクがあることに違いはない。

教師に自分の読書について話す

教師が生徒と個別のやり取りをするカンファランスは、リーディング・ワークショップの核とも言える部分であり、教師はここで生徒がどんな本を読んでいるのか、その内容が理解できているか、楽しんでいるか、などを確認する。様々な事情で、教師が例外的に配慮して話しかけるのを遠慮する生徒はいるが、多くの生徒は、ここで教師の質問に答えることになる。彼らは「自分が答えるのを拒否して良い」とは思っていないはずだ。そして、カンファランスについて生徒全員に「拒否権」を認めてしまうと、リーディング・ワークショップ自体が成立しないのも事実である。

「共有の時間」で読んだ本について紹介する

僕の授業では、その日のリーディング・ワークショップの最後に、読んだ本について隣席の生徒と紹介し合う「共有の時間」を設けることが多い。これは、アウトプットすることで軽い要約の練習になることや、新しい本への出会いの機会を増やすことを念頭に置いた活動だ。

この時間では、読者の権利10か条「黙っている権利」への配慮として「嫌な人は紹介しなくてもいい」という声がけはしている。しかし、全ての生徒が紹介をやめたらこの時間そのものが成り立たないし、皆の前で拒否することにプレッシャーを感じて、仕方なく参加している生徒がいる可能性は否定できない。

教室でどう扱う?「読者の権利10か条」

2017.05.16
他にも、授業中に僕が本を生徒に勧めたり、中心的に扱うジャンルを定めたりすることはあるのだが、これには大きな倫理的問題は伴わないと判断した。というのも、リーディング・ワークショップでは最終的に読む本を決めるのは生徒であり、教師は推薦はできても強制はできないからだ。多少はプレッシャーを感じるだろうが、読んだ本によって成績に差をつけるわけではないので、生徒が読む本を自由に選べない、ということはない。

読書の秘密が脅かされるとき

こうしてみると、生徒の「読書の秘密」は、こちらが配慮したとしても、やはり脅かされている。問題は、「どこまでなら」脅かされても許容できるのか、という問題になるだろう。そのラインをどこで引けばいいのか。

鍵になるのは、このリーディング・ワークショップが、生徒の読書生活のどの程度を占めるのか、という点ではないだろうか。例えば、現状では、生徒が把握されるのは、あくまで僕が授業を持った場合の国語の授業(週2回)の読書に限られる。また、僕は通常の国語の授業もやっており、年中リーディング・ワークショップをしているわけではない。また、当然のことながら、彼らが授業外で学校図書館で借りる本については承知していないし、東京には学校図書館以外にも、公共図書館や書店がたくさんある。つまり、彼らには授業外で読む機会と時間が確保されているので、「プライバシー侵害」の度合いはかなり限定的なのではないかと思われる。

しかし、たとえば次のような条件がそろい、生徒の読書環境の大部分を学校図書館が占め、しかもそこでリーディング・ワークショップが展開されるとしたらどうだろうか。相当慎重にプライバシーの問題を扱わないと、生徒の読書生活の多くが教師からの介入をともなうものになってしまう恐れがあるだろう。

  1. 年間を通してリーディング・ワークショップが展開される
  2. 全ての学年でリーディング・ワークショップが展開される
  3. 全ての教師がリーディング・ワークショップを行う
  4. 教師同士の間で、生徒の読書履歴が共有される可能性がある
  5. 近くに公共図書館や書店がない環境である

リーディング・ワークショップを全面的に展開する危うさ

ここで僕が念頭においているのは、ナンシー・アトウェルの学校Center for Teaching and Learningのことだ。リーディング・ワークショップ(やライティング・ワークショップ)を全面的に展開する彼女の学校では、「読者の権利10か条」を授業で取り扱うとはいえ、総合的に考えて、生徒たちの「読書の秘密」が守られているとはあまり思えない。アトウェルの実践は、「教育の論理」では素晴らしいものかもしれないが、「図書館の論理」から見た時に、批判される余地を多分に含んでいる。

もっとも、アトウェルの学校には学校図書館があるわけでもなく、司書もいない。したがって、少なくともアトウェルの主観では、最初から「図書館の論理」は考える必要がなく、読者のプライバシー保護に関する倫理的葛藤は、彼女にはないだろう。彼女は、ただ生徒を「自立した読み手」に育てるために、打てる手を打っているだけだ。
事情は日本でも同じである。日本の学校で、図書館を舞台にリーディング・ワークショップを展開するとき、それが全面的な展開であればあるほど、先生たちが連携すればするほど、生徒の読書のプライバシーを侵害する可能性は高くなる。周囲に図書館がない環境ならば、なおさらのことだ。

「自由な読書」を確保する余地があるかどうか

生徒が授業とは別に「自由な、教師の視線から逃れた読書」をする余地を、実際にどれだけ確保できているか。リーディング・ワークショップ実践者は、常にこの観点で自分の実践を振り返らないといけない。そして、それが少ないと判断された時には、「黙っている権利」をクラスメートだけでなく教師に対しても行使できるよう、環境を整えていく必要がある。それは、考えようによっては、リーディング・ワークショップ自体を一部否定するような営みである。しかし、「学校の論理」と「図書館の論理」の共存?相克?は、常にこのような「痛み」をともなうものなのだろう。

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