リーディング・ワークショップの「読む時間」は、外から見る限り生徒はただ本を読んでいるだけ。そこで、はじめてリーディング・ワークショップを見た方には、同じく個別読書(Independent Reading)である「朝の読書」運動と何が違うの?という疑問が出てくる。これはリーディング・ワークショップに関する「あるある質問」なので、ここで書いておこう。最大の違いは、リーディング・ワークショップは読む力や読者としての姿勢の向上を目指した「授業」であり、良かれ悪しかれ様々な形で教師の介入があるということだ。
目次
自由で評価しない「朝の読書」
「朝の読書」は、(現場レベルでは色々な解釈もあるだろうが)次のような4つの原則を掲げている。
- みんなでやる
- 毎日やる
- 好きな本でよい
- ただ読むだけ
参考)「朝の読書」ホームページ
http://www.tohan.jp/csr/asadoku/
そして、「朝の読書」の根本的理念は、「授業として指導しない、評価をしない自由読書」という点にある。「授業」ではないのだ。上記ウェブサイトでも、「朝の読書を総合学習に組み入れたい」という質問に対して、次のように答えている。
『朝の読書』を「総合的な学習の時間」(以下総合学習)に組み入れたいという学校が多いようですが、『朝の読書』は「総合学習」とは性格が違うものです。なぜならば、何も求めない自由な『朝の読書』に対し、「総合学習」は教育課程の中にある授業として「指導」と「評価」が必要になります。『朝の読書』は授業として指導しない、評価をしない自由読書が基本です。評価や競争が発生すれば「読書」が子どもたちに負担となり、形骸化する恐れもありますので、熟慮が必要です。
朝の読書は授業ではない。評価という枠組みから外れたところで、生徒が自由に本に出会う10分を提供する。それだけ。感想文も記録も求めない。「朝の読書」の目的は読解力の向上ではない。仮にそうなっても、あくまで副次的効果にすぎないのだ。「朝の読書」のこういう点に共感されている方もきっと多いことだろう。
教師の介入も指導もあるリーディング・ワークショップ
一方のリーディング・ワークショップは、れっきとした「国語の授業」である。そこでは、読解力の向上や読書人としての姿勢の向上が明確に期待されている。
そして、ここで重要なのは、近年の読みの力をめぐる研究では、「ただ読むだけ」では読解力の向上には不十分であることが指摘されていることだ。例えばいま読んでいる下記の本は、近年の読みの研究成果を根拠にしつつ「ただ読むだけの個別読書はダメ!」とタイトルで明確に主張している(この本、おすすめです! 後日別エントリでまとめます)。
読みの力を向上させるには、読む時間と、その本を生徒が選択することが重要なのだけど、それだけではない。読みについての研究成果によれば、語彙レベルが易しすぎるものや難しすぎるものを読んでも効果はあまり見込めないし、読む力を高めるには多様なジャンルを読むことが必要だ(好きな小説だけを読んでいても、広汎なジャンルに対応する読む力はつかない)。また、読んだものについてアウトプットする機会も効果的だ。
「朝の読書」では選書を完全に個人に委ねて評価もしないので、原理的にこういう点を押さえることができない。一方、リーディング・ワークショップは、こうした点に積極的に介入していく。ライブラリーを整備し、ミニ・レッスンで方略を教え、一対一のカンファランスをする。こういう中で、自分にとって意味のある目標を設定するように生徒に呼びかけるし、カンファランスを通じて生徒がその本を楽しく読んでいるかチェックしたり、場合によっては別の本を紹介したりもする。また、「共有の時間」、ブックトーク、レター・エッセイ、記録用紙など形は様々だが、生徒のアウトプットも求める。
リーディング/ライティング・ワークショップは構成的
要するに、リーディング・ワークショップはひと言でいうとあくまで「授業」なのだ。そこは、「朝の読書」とは違って、教師の意図がはりめぐらされた教室空間である。国語教師である僕は読み書きの力の向上に関心があるのでリーディング・ワークショップをやっているのだが、一見とてもよく似ている「朝の読書」が好きな人の中に、リーディング・ワークショップが嫌いな人がいても驚かない。両者の違いは、けっこう大きい。僕も「朝の読書」の理念は嫌いではない。むしろ素敵だと思う。ただ、限られた授業時間の中で効率的に生徒の読み書きの力を伸ばすという観点を持つ時、僕はリーディング・ワークショップを選ぶ、というだけのことである。
ライティング・ワークショップもそうだが、リーディング・ワークショップは、従来型の「一律教材・一斉読解授業」と見た目がかなり異なる。生徒がバラバラに活動している。それで、こうした実践を初めて見る方には、とても「自由」に見えてしまうし、それは実際間違ってはいない(生徒の実感としても、従来型授業と比べればはるかに自由だろう)。
しかし、別の観点からはこれらの実践はとても構成的な場だ。ミニ・レッスン、ひたすら読む時間、共有の時間…その全てに意図があり、教師からの介入がある。
グレイヴスはアトウェルのどこを褒めたか?
ここで僕はIn the Middleのある場面を思い出す。まだ若かったナンシー・アトウェルが、高名なドナルド・グレイヴスの訪問を受けた時のこと。アトウェルの教室を一日見学したあと、グレイヴスは彼女にこう言った。「ライティングの素晴らしい教師に必要な条件を、君はちゃんとわかっているね」と。尊敬するグレイヴスの言葉に、アトウェルは狂喜する。内心のドキドキを隠して、彼女はこう尋ねる。
グレイヴスの言うとおりだ。きちんと意図を持って手順を整え、授業を構成しない限り、ワークショップ型で教えることはできない。リーディング・ワークショップも、良かれ悪しかれ、放任の自由読書とは異なるのである。「それは何でしょうか」と私。
その返答は「君の授業は、最高に手順が整っているんだ」でした。
おそらく私の顔が曇ったのでしょう。グレイヴス氏は真顔になりました。「いいかい、手順が整っていない限り、この教え方で書くことを教えることは無理だよ。生徒を自由にさせるだけの放任ではないからね。」(p.26)