[読書]教育の役割をあらためて考えさせられる、諦めと希望の本。安藤寿康『教育は遺伝に勝てるか?』

あなたが親であるなら「心優しい子になるように」「協調性があるように」「コツコツ努力できる人になるように」など、何らかの願いを持って子育てに関わっていると思う。そんな時に、「あなたが手塩にかけて育てても、誰か別の家に養子に出されたり、児童介護施設で育ったとしても、そこでまっとうに育てられる限り、子どものパーソナリティには大した違いがない」と言われたら、どう思うだろう。そんなはずはないと思うだろうか。でも、安藤寿康『教育は遺伝に勝てるか?』で、双子研究を専門とした知見をベースに筆者が主張しているのはそういうことだ。教育の仕事に関わると、つい学校や家庭の影響力を過大に見積もってしまうが、そんなことは決してない。「勝てる/勝てない」を超えて、遺伝が持つ人生への影響の大きさを感じ取ることのできる本だ。

僕が本書を読んだのは、飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ』で、「二人に一人が本を読まないのは遺伝的にそうなっている」という主張の根拠で安藤さんの論文が引用されていたからである。

目次

思ったよりも大きいぞ、遺伝の影響…!

最初は、本書を読んで自分が率直に驚いた研究結果を上げていこう。

学業成績やパーソナリティーなど、あらゆる側面に遺伝は影響する

まず、能力や性格など、あらゆる側面に遺伝は影響する。まあ言われればそうかなと思うけど、日本人小学生の国語の学業成績が、50パーセント程度が遺伝で説明され、30パーセント強が家庭環境、学校などの非共有環境の影響は15パーセント程度に過ぎない、という数字は、学校の国語教師としてはなかなかに笑ってしまう数字で、こういう数字に踊らされないようにと思ってはいても、やはり遺伝の影響の大きさに驚いてしまう。

ただ、まず注意したいのがこのパーセントの数字だ。この数字は、集団の中での分散(ばらつき。個人差)を遺伝や家庭環境が説明する割合を示している。例えば国語の成績が50パーセントが遺伝だからと言って、別にテストの成績のうち50%分が遺伝で決まっているというわけでない。

そして、もちろんこれは、遺伝が全てで教育なんていらないよねという話でもない。だって、この数字は、現に家庭や学校で教育が行われている中でのばらつき(成績の個人差)を説明する数値であって、いかに遺伝的素養があろうが、習わないものや勉強しないものを自然にできるようになったりはしないからである。

知能や学業成績には、遺伝によって説明される個人差が一番大きく、次いで家庭の方が学校よりも影響が大きい。ざっくりいうと、おおよそ遺伝が50パーセント、家庭が30パーセント、学校などは残りの20パーセントだそう。これは、家庭で親の姿を見て学習したり、知識や技能を学ぶための素材や機会が与えられるかどうかの違いが、顕著に影響するからだと筆者は説明している。

筆者は本書で双生児を対象にした家庭環境の影響の調査についても書いているが、親が読み聞かせをしたり子どもに読書の機会を与えたりしてあげることが、統計的に学力評定に有意に影響しているとしており、より具体的には、子どもの遺伝的素質に関係なく、親自身の読書教育の努力によって4パーセント程度学力を上げる可能性が示唆されている。この4パーセントを大きいと見るかどうか、である。

とはいえ、遺伝要因の影響は一般に思われているよりもはるかに大きい。そのことを筆者は指摘し、次のように述べる。

子どもにとっては、遺伝要因も家庭要因も、ともに自分ではどうすることもできないガチャ要因です。自分自身の持つ遺伝要因と生まれ落ちた環境によって、あわせて8割から9割が説明されるほどの大きさだというのに、このことがほとんど知らされていない世間では、子どもがお勉強ができない理由を、本人の努力不足や、勉強の仕方、先生の良し悪しといった、もっぱら非共有環境のせいにされています。これは、子どもにとって、きわめて理不尽といわざるをえません。

ううん、なるほど…である。本人の努力不足と言っても、それを支えるパーソナリティーである勤勉性自体が5割は遺伝で説明されてしまうのだから、本人のせいと言うのは酷だろう。本人には気の毒な話である。

パーソナリティや社会的態度に家庭の影響はほぼない

また、本エントリの最初に挙げたが、いわゆる外交性、開拓性、同調性、勤勉性などのパーソナリティに家庭環境がほぼ影響しないというのも驚きだった。たとえ同じ環境で育っても、性格がまるで違うきょうだいはたくさんいるので(僕の家もそうである)、言われれば確かに…と思うのだけど、ここまで家庭環境に影響力がないとは(笑)勤勉性や協調性なども、遺伝によるその人のセットポイントがあり、一時的に無理をして勤勉性を高めることはできても、それを無意識に持続できるできないには明確に遺伝の影響があるようだ。僕の場合は一時的に社交的に振る舞うことができても、それでコミュニケーションポイントを消費して疲れ切ってしまい、それを自然に続けられる人とは明確に差がある、みたいなものかな。ADHDや自閉症も8割が遺伝要因で、残りが非影響環境。僕が子どもの頃は「親の愛情不足」という説があった時代もあったと記憶するが、事実は全く異なっていたわけ。

「嘘をつく」「ギャンブルへの選好」「社会規範への不従順」「不倫」「非行」などの社会的態度にも、遺伝と非共有環境の影響が大きく、家庭は影響しない。よく「父親がギャンブル好きな家庭で育ち、本人も非行に走ってギャンブルにのめり…」などと、子どもの社会的態度が家庭環境と紐づけて語られることが多いが、それは本人や周囲が納得しやすいストーリーではあっても、事実ではない。たまたま親子がともにギャンブルを選好するような遺伝子の組み合わせをともに持っていたか、あるいは別々の非共有環境が影響した、ということなのだろう(ちなみに、親が虐待をしている、極端に貧困状態にあるなどの場合は話は別である)。

なお、こういうセンセーショナルにも思える数値を並べる前に、なつかしいメンデルのエンドウマメの実験をもとに、「親が持っている遺伝子を子どもがそのまま受け継ぐ」という誤った遺伝イメージを訂正し、子どもがどんな形質を受け継ぐかは基本的にランダム(偶然)である、ということをはっきり書いているのも大事だと思う。「遺伝」というと、つい親は「自分のせい」と思いがちだからだ(そして「環境」でも親は自分のせいと思いがちなので、親って本当に大変だ…)

遺伝決定論なのか? 学校教育の役割は?

というわけで、思ったよりも遺伝の影響は大きい。だからと言って「遺伝決定論」なのかというと、それとも全然違う。筆者は次のようにも述べている。

だからといって人の人生が遺伝子によって完全に操られ、一人ひとりの自発性や自由意志が損なわれているのではないということです。誰もが自分の遺伝的素質を通して、いま生きている環境の中で何をどのようにするのかを、自分の頭で考え、心で感じ、自分のすることを選びながら人生を紡いでいきます。その選択は、まぎれもなくあなたの自由意志として経験されているはずです。

この「自由意志として経験されている」のが大事なのだな。もちろん遺伝の影響を受けないものは何もないのだけど、子どもは一人ひとりの遺伝的素質を持ちながら、それと環境の相互作用の中で成長し、遺伝的素質を発現していく。そこに家庭や学校は寄与できるのだと思う。

それに関して、「知能は、年齢を重ねるごとに遺伝の影響が強くなる」という話もあわせて紹介したい。これは本書を読むにあたって参考程度に読んでいた安藤寿康『能力はどのように遺伝するのか』に書いてあったのだが、知能に関しては、児童期は4割程度だった遺伝の影響が、青年期では5割強、成人期初期では7割弱に達する研究もあるのだそうだ。

これは、何を意味するのだろう。遺伝の影響が大きいから勉強しても無駄だよ、ということではない。それは、「知能」というものをあまりにテストの点数のようにして捉え過ぎている解釈だ。この数字が語っているのは、人は、周囲の環境の影響をただ受けるだけの存在ではない、ということだ。人は、自らの遺伝的素質に従って、周囲の環境の影響を受けつつも、能動的に学習を進める。そして、何に「能動性」を発揮するかには、本人の遺伝的素質が関わってくる。だから、学習を続けるにつれて、その本人の遺伝的資質が開花していく。まさに社会構成主義的な学習観を地で行っているわけ。

結局、その子は生まれつきその子が持っている資質を活かして学ぼうとする。だとしたら、学校の側も、「全員に一律にこの内容をこのレベルまで」を目指すのではなくて、その子の持っている遺伝的資質が花開くような環境を用意することが大事なのではないか。学校制度で、小学校・中学校・高校と年齢が上がるにつれて進路の選択の自由度が上がっていく仕組みになっているのは、おおむね、間違っていないのだと思うし、早くからその子の「好きなこと」「得意なこと」を活かせる環境が作れていけたらな、と思う。風越は、そういう方向性を伸ばそうとしているのは良いところだよね。

結局、教育は遺伝に勝てるの?

ここまで読んで、「結局、教育は遺伝に勝てるの?勝てないの?」と思う人もいるかもしれない。うーん、イエスかノーかだと答えにくい。遺伝の影響は、思ったよりもずっと大きい。でも、上で書いたように、遺伝決定論とは思わないし、教育にできることもあるな、と思う。

ただ、全体としては、とても気持ちを楽にさせてくれる本だな、と思った。親子関係で言うと、育てたように子は育たない。子どもがどんな性格になろうが(虐待とかしていなければ)親のせいではない。それでもやりたければ(そうしちゃうのもあなた自身の遺伝的素質の発現かもしれないから)自由にやりなさい、でも結果を期待しちゃいけないよ、というわけ。どうです、なんだか肩の力が抜けるような気がしませんか。

また、学校の教員も、学校に期待しすぎないというか、僕でいうと、国語の得意な子や苦手な子はどうしてもいるし(なんといっても遺伝が5割なのだ)、苦手な子に対して「どうしたら力がつくのか」とあれこれ工夫を続けてしゃかりきに力をつけようとしても労多くて利すくなし(なんといっても学校は2割にも満たないのだ)。それよりも、その子の生まれ持った特性の大きさを認めて、その子の好きや得意をどうしたら活かせるのかな、と思う方が、ずっと気楽だと思う。だから、諦めの書とも、希望の書とも言える。でも、本書の最後の方に書かれた次の言葉は、筆者の人間に対する愛を感じて、とても好き。教育とか人間の成長ということを、大きな視点で捉えている人だな、と感じ入った。教育関係者の方は、ぜひお読みください!

そもそも個性的であること、何らかの才能を発揮すること、志をもって人生を貫くことをよかれと考えること自体が、一時の流行にすぎません。ボトムラインは、まず生き抜くことです。それすら大事業です。個性や才能や志は、その人の時代と環境で見つかる人もいれば見つからない人もいる。それは遺伝と環境の条件の偶然が生み出す必然です。あなた自身の人生をふり返ってみても、そうだったのではないでしょうか。あなたのお子さんも、きっとその子なり、その必然を生きていくはずです。

 

追記)興味深い「参考文献について」

さて、もともと、飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ』がきっかけになった読書だったが(書下記エントリを参照)、読解力と遺伝の関係を超えて、教育って何だろうと考えさせられ、面白い読書経験だった。

[読書]まずは、子どもたちの読書実態をよく知ることから。飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ』

2023.11.23

そんな本書で最後に興味深かったのは、行動遺伝学の有名な専門家であるロバート・プロミンがキャスリン・アズベリーと書いた共著『遺伝子を生かす教育』への批評である。

安藤さんはこの本を、「教育、学習、知能、学力に関する行動遺伝学からの知見と提案が具体的に論じられて」いる本としつつも、教育を基本的に学校教育のスケールでしか考えていないその姿勢に、「私が一番したくない、行動遺伝学のもっともつまらない教育への応用」と評しているのだ。まあたしかに、学齢期を過ぎてからますますその人本人の遺伝的形質が表面化してくることがわかると、教育を「学校教育」の枠で狭く捉えることの無意味さというかむなしさも感じるところ。それでも、自分もその学校教員なので、この本も手に取ってみようと思う。それはそれで面白そうだし。

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