劣等感を「いったん脇に置く」ことの難しさ

昨夜、レポートを一つ書き終えた夜の9時すぎから、エクセター大学に籍を置く日本人や韓国人の方とおしゃべりを楽しんだ。僕も妻もお酒が飲めないので、実は僕はイギリス初のパブ体験。

日本人がある程度集まると、話はどうしても英語での苦労話になる。自分がそうだからか、少なくともエクセターでは、英語で苦労されてる日本の方が多いように感じる(と言っても母集団がとても少ないのだけど)。まあ、日本は日常生活で英語を使わずに生きていける国なので、それは仕方ない面もある。慣れればいつかは誰だってできるはずと言うのも、理屈ではわかっている。

でも、英語の出来なさは、割と露骨に「他人との優劣差」として見えてしまうのが厄介だ。講義でのジョークに反応できない、クラスメートは講師よりもさらに早口なので、ディスカッションになかなか加われない、日本人得意のはずの読解だって、読むのにえらく時間がかかり、「丁寧に読まないと理解できない、でも丁寧に読むと全く読み切れない」ジレンマに襲われる。書くのにももちろん時間がかかるし、文法のミスも結構してしまう。「読み、書き、話し、聞く」って、日本では国語教師として教えてたはずのことなのに、それがいまや全て苦手だなんて!

ところで、「相対評価が成績下位者に負の影響を与える」ことは、動機付け研究ではよく指摘される話だ。劣等感は、人にマイナスに働く。静かに人の熱と勇気を奪っていく。人を卑屈に、臆病にさせて、自分の可能性を低く見積もらせてしまう。

僕が今わりと本気で克服しなきゃと思っているのは、それ。できないのは、仕方ない。劣等感を抱いてしまうのも、まあ心の動きなので仕方ない。でも、できないことを受け止めて、劣等感をいったん脇に置いて、自分の中での頑張りや蓄積をきちんと評価してあげること。そして自分に成長実感を持たせてポジティブなドライブをかけ、自分の学習過程をコントロールすること。

理屈ではわかっていることが、けっこう難しい。クラスではほとんど最年長グループの僕が、なんとか授業に参加して発言しようとすると頓珍漢な受け答えをしてしまうことも当然あり、その時のちょっとした周囲の笑い声が、スーッと自分の心を冷やしていく。意識したらダメ。萎縮しない。劣等感を脇に置くこと、自分の蓄積や成長をきちんと評価すること。常に自分に言い聞かせている。

動機付けの話を知識として持っている僕でも、やっぱり実際には「劣等感をいったん脇に置く」ことはなかなか難しい。それなのに、多くの中高生は、テストで常に順位や平均点を意識させられ、その結果として常に一定数の生徒が劣等感を植え付けられているのだ。それで、自分の可能性を低く見積もったり、挑戦することに臆病になってしまう子たちも、きっと相当数いるだろう。なんて不幸で、非効率的な、人や社会全体の可能性を豊かにしないシステムなんだろうと思う。

「劣等感をバネに頑張れ」? それって、頑張るための資源を持ててる子の話でしょう?劣等感が続くと、その頑張るための資源がなくなるんだよ。 「それくらいできないと社会に出てもっと厳しいぞ」? そんな選別と脅迫の論法が、本当に望ましい教育や、望ましい社会なの?

能力差は、厳然として存在する。でも、劣る子も、劣っているという意識を抱かずに、自分の成長と向き合える環境。そんな環境は、どうやったら作れるんだろうか。今の学校が、そういう環境になれているんだろうか。

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