「苦手」からはじまる探究について

この文章は、風越の同僚と10分程度で書いた文章を読み合う研修の中で書いたもの。ちょっと表現を手直ししたけど、ほぼそのまんま。生煮えの雑文なんだけど、雑文のまま、おいておきます。なお、画像は毎年恒例の「おそと読書」。外の読書が気持ちいい季節です!

好きなものから学びがはじまる。なんていうのは、半分は本当で半分は嘘だ。好きなものからはじまることもたしかにあるけれど、好きなものはうつろいやすく、飽きやすい。どっちかというとだいじなのは、いろんなものごとを「好きになろうとする」姿勢だったり、それよりももっといえば、いろんなものごとについて「なぜだろう」「どうして自分はそう感じるのだろう」と問いが駆動していくことだったりする。

好きなものを目の前にすれば問いが駆動するかというと、必ずしもそうではない。好きなものを目の前にすると、そこに没入して、距離がとれなくなるから、問いが駆動する暇なんてない。逆に、嫌いなもの、苦手なものを目の前にしたとき、ざらっとした違和感や「嫌だ」という強烈な感情が壁となって、対象と私の間に距離をつくる。

なぜ自分はこれが嫌なんだろう、苦手なんだろう。それなのになぜ、隣の人は平気そうにしているんだろう。

その、自分と対象との間の距離、自分と他者からの距離が、自分にとって大事な問いを駆動させることって、実はたくさんあるんじゃないか。

風越には、ぼくの好きでないもの、苦手なものもたくさんある。「ニックネーム」で呼び合うこと。プロジェクト・アドベンチャー。国語以外の授業。陽気なにぎやかさ。そういえば、昨年度末の卒業式で、卒業証書を貰う人を卒業生自身がえらぶのも、なぜかまわりには好評の人が多かったけど、僕はとても嫌だった。

しかし、そういう「苦手なもの」が生み出す違和感が、「なぜ嫌なのか?」「あの人と自分は何が違うのか?」「自分は何者なのか?」という問いを駆動させてきたのも事実だ。自分の得意と苦手があらわになり、そのうえで、この環境とどうつきあっていくか。少なくとも、自分についての探究は、風越にきてからだいぶ進んだ。

その結果として、最近は、自分の根っこは「教師」じゃないな、という理解を深めている。読むことや書くことが自分の根っこにあり、それを活かす職業選択肢の一つとして「教育部門」に今は身をおいている、という感覚。そうすると、「そういう自分が、教育部門の中で自分らしさを活かすってどうしたらいいんだろう」とか、「もし教育部門じゃなければどの部門に身を置けるだろう」という、次の問いも生まれてくる。こういう問いは自分の可能性を開いていくようでなかなか楽しい。

こんなふうに、「苦手なことからはじまる探究」が、たしかにある。だから、子どもたちにも、好きなことだけでなく、苦手なことにもっと向き合わせようよ。そこから問いが駆動して学びが進むんだから。という気持ちが、ぼくの中には確かにあるな。

ただ、じゃあ誰に対しても苦手なことをやらせるのがいいかっていうと、それも違うな、という気がする。あの子やあの子にそうさせたら苦しいだろう。苦手なことから問いが駆動するための条件ってあるんだろうか? ぼくがたまたま「そういう人」だっていうこと? そのへんのことは、まだよくわからない。でも、なにかありそうだ。そこはもうちょっと考えてみたい。

 

この記事のシェアはこちらからどうぞ!