たまたまFacebook経由で短歌を作る2つのプログラムを知る。どちらも「短歌の短歌らしさって何だ?」と考えさせてしまうもので、とても面白い。
▷ 偶然短歌bot
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「星野しずるの犬猿短歌」は、僕がアクセスした時にはなぜか本体の短歌自動生成機能は(今たまたま?)稼働してなかったんだけど、これまでの作品がツイッター等で読める。これがまたとってもいい作品があるのだ。好きな作品をいくつか集めてみる。
運命をなぞる短歌をあきらめて空一面の夏の直線
ぺらぺらの高層ビルから飛び出したやがてかなしき国を集めて
やせこけた戦争の中 少年を殺しわずかないいわけを持つ
うつくしいあふれるほどの骨でしょう? おとぎ話を愛し続ける
とくべつな紫色の歌のよう 十一月をおぼえていよう
まぶしげな日々をおそれて爆発は小さな時を奪ってしまう
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さらに面白いのは、「犬猿短歌とは?」のコーナー。「読者の解釈力に依存して詩的飛躍を感じさせる短歌」への批判がこめられているのね。
僕はもともと、二物衝撃の技法に頼り、雰囲気や気分だけでつくられているかのような短歌に対して批判的です。そういう短歌を読むことは嫌いではないですが、詩的飛躍だけをいたずらに重視するのはおかしいと思っています。かつてなかった比喩が読みたければ、サイコロでも振って言葉を二つ決めてしまえばいい。意外性のある言葉の組み合わせが読みたければ、辞書をぱらぱらめくって、単語を適当に組み合わせてしまえばいい。読み手の解釈力が高ければ、わりとどんな詩的飛躍でも「あるかも」と受けとめられるはずだ……。そう考えていました。その考えが正しいのかどうか、検証したかったのが一番の動機です。
星野しずるの短歌をたくさん読んでいくと、何首かに一首、はっとさせられる短歌を見つけることができると思います。人間ではつくれないような新鮮な暗喩をつかったり、時には逆に、まるで人間がつくったかのような深淵な意味が読み取れてしまう短歌も出てきます。まずはそのおもしろさを楽しんでほしいですね。その上で、人間の持つ「理解しようとしてしまう力」の潜在的な高さについて驚いたり、読み手依存型の創作の怖さに気づいたり、創造性がほんとうに発揮されねばならない場所とはどこなのか再考したりしていただければ幸いです。
人間の「理解しようとしてしまう力」って面白いなあ。しかし、こんな問いをつきつけられたら、短歌を作れなくなってしまう気がするよ。
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一方の「偶然短歌bot」は、Wikipediaの記述からたまたま5・7・5・7・7になってしまった部分を抜き出すbot。正確に言うと生成というより短歌抽出のプログラムだけど、負けず劣らずこちらも面白いです。
こちらも作者さんの製作記がこちらで読めます。
地味に困ったのが、ウィキペディアには本当の短歌そのものも載っているので、それも引っかかってしまうことです。本物の短歌は除いたほうがよいと思うんですが、自動で弾くいい方法を思いつかず、残念ながら抽出済みのものから自分が気づいたものを手作業で除いています。
今回これを作っていて思ったのが、抽出の仕方は個人の意向が入るところなので、別の方がやればまた違ったものが出てくると思います。対象となる文章も、ウィキペディア以外にもあります。なので、いろんな人が各々探し出した偶然の短歌を披露しあう歌会みたいなのがあれば面白いかな…と思いました。
こんな歌会があったら面白そう。授業でもできたら面白いだろうな。