いつも参加している定例の勉強会があって、先日そこで今学期のリーディング・ワークショップの授業計画について相談をした。僕の場合、リーディング・ワークショップの課題になるのは、カンファランスと評価だなあと思う。今日はそれについて書いてみたい。
目次
読書家としての自立をめざすリーディング・ワークショップ
リーディング・ワークショップは、生徒が自分で本を選んで読む体験を重ねながら、読書家として自立していくことをめざした授業である。
以前に調べたことだが、日本では1930年代に「読解」絶対主義のような風潮がおき、と「読書」は学校の国語の授業では扱わず、個人でやるものという認識が定着した。
僕はこういう日本の標準的な国語教育には批判的立場で、精読一辺倒では読書量が絶対的に足りないと思っているし、いくら「本を読め」といったところで特に高校生以上は昔も今も読まないのは実態からも明らかなのだから(下記エントリ参照)、リーディング・ワークショップを授業でも導入しようと、試行錯誤中だ。
問題は「評価」の難しさ
自分で取り組んでみて、リーディング・ワーク・ショップの課題は「評価」の難しさだなあと思う。この評価には、途中で行われるいわゆる「形成的評価」と「評定(成績)」の両方の意味があって、そのどちらも難しい。問題の根っこは、「読書そのものには目に見える成果物がない」ことにある。
カンファランスの難しさ
リーディング・ワークショップの形成的評価は、カンファランスと呼ばれる一対一の対話を通してなされる。僕の場合は、40人という生徒数が多いことにともなう難しさに加えて、ライティング・ワークショップとくらべて目に見える成果物がないので、何をもとにしてカンファランスすればいいのか、戸惑ってしまう。そのせいで、昨年秋の授業ではほとんどカンファランスできなかった。
とはいえ、あまり難しく考える必要はないのかもしれない。ナンシー・アトウェルの学校でも、Check-inと呼ばれるごく簡単なカンファランスしかしてないようだ。例えば、Reading Zoneに掲載された「Check-inの時の質問リスト」(p68)を見ると、
- 何ページを読んでる?
- これまでどんな感じ?
- 楽しい?
- 主人公はどんな人?
- なぜ著者はこの本を書いたのだと思う?
- 著者の他の作品とくらべてどう?
- 語り口はどう?あなたにとってどう機能してる?
- (対話/書き方/文体/構成/章の長さ/回想や未来予測/予兆/用語選択/著者の○○についての試み)についてどう思う?
- どうしてこの本を読もうと思ったの?
- この本は「易しい」「ちょうどいい」「難しい」のどれ?
- あと何ページか読んでみて、それでも面白くなければ読むのをやめてもいいよ。何ページにする?
- 言葉が難しくて混乱していない?/難しくて何が起きているかわからなくなっていない?
- 今振り返ってみて、テーマは何? 結局どういう本なのか、わかってきた?
- この本に何点をつける?
- 次に何を読むつもり?
のような質問が「作者についての質問」「本の評価を求める質問」「プロセスについての質問」というジャンル別に並んでおり、その大半はたわいもないものである。
今学期はライティング・ワークショップと同様に毎回記録を出してもらうので、それをもとに次にカンファランスしたい生徒を何人かは決めつつ、上のCheck-inの質問リストを参考にカンファランスしていくつもりだ。
「成績評価」の難しさ
もっと悩ましいのは、「成績評価」の難しさである。ぼくの勤務校ではシステム上、毎学期100点法で成績を出さねばならない。これがライティング・ワークショップをやっている時もすごく悩ましい(生徒のショートストーリーに100点満点で成績をつけることの苦しさをわかってください)のだけど、これが読書となると、もう成績なんてつけようがない。
もちろん、総括的な評価そのものは、作業の大変さこそあれ、理論的には可能だ。アトウェルがやっているように、生徒の自己評価をベースにして教師からのコメントを書き、次回のリーディング・ワークショップにつながるようにしてやればいい。
でも、「数値で成績をつける」という僕の学校の標準的なやり方とリーディング・ワークショップは、決定的に相性が悪い。だって、現在の個々の読書力にあった本を読むべきなのに、「難しい本を読んだから100点」も変だし、「1冊しか読んでないから50点」も変だ。読書レポートなどの提出物で評価すると、それは読む活動ではなく書く力を評価することになってしまう。リーディング・ワークショップのような読書を軸にした授業が国語教育の現場で広まらないのは、評価の仕組みととても相性が悪いせいもあるのかなあ、と思う。数字があれば「客観的評価」という気がするけど、そんな雰囲気がまるでないもの。結局、今回は「リーディング・ワーク・ショップの記録を提出すれば一律に何点」というやり方にせざるをえなかった。他校で実践されている方に聞いても同じようなやり方のようだ。満足いく方法ではないけど、とりあえずこれ以外思いつかない。誰か、良いアイデアあったら教えて下さい。
もともと「成績評価」はなんのため?
かくも悩ましいリーディング・ワークショップの「評価」問題。しかし、もともと形成的評価にせよ、成績にせよ、生徒の力を伸ばすためのものだ。僕には、「成績をつけるために授業をしているんじゃないし!」という思いもある。リーディング・ワークショップが、成績をつけるシステムと合わないときに、悪いのはリーディング・ワークショップの側なのだろうか。いや、数字で成績をつけるシステムのほうが悪いのだ。だって、リーディング・ワークショップで力はつくんだから。独りよがりにならず、実践と検証を積み重ねながら、いつかそう自信を持って言えるだけの授業を重ねなければ、と思う。
読書を軸にした国語の評価というと、書いたものを評価するのが基本になるのかなと思います。アトウェルの授業なら、レターエッセイとブックレビューがそれに当たると思います。この書いたもの(読書のパフォーマンス)を、無理やり点数化することは可能だと思います。
最近、亀山 郁夫さんが『カラマーゾフの兄弟』の続きを予想するという本を読みました。その読みは亀山 郁夫さんのものですけれど、ドストエフスキーの主著をほとんど翻訳し、歴史学者的なスタンスで資料を分析して考察するその予想は、すごいものでした。亀山 郁夫さんの本を読んでも思うのですが、読みを評価するなら、基本的に、読者が読んで考えて書いたものに頼るしかないのかなと僕は思います(読者が本について話したことも参考になりますけど)。
てるさん、ありがとうございます。実は去年は簡単なレポートを書かせていたのですが、それって本当に読み手としてのパフォーマンスなのかどうか。書いた作品の評価になってしまう可能性が大きいように思うのです。どうなのでしょう。
たぶん、読み書きを切り離して評価することが不可能なのかもしれないです(話すことで評価可能ですが、特にコスト面で難しいと思います)。書くことは、書き言葉を読む経験に依存しています。読むことは目に見えないので、読んで考えたことを話してもらうか、書いてもらうかしか原理的に評価する方法がなさそうです。もし読むことが考えることだとして、それを評価しようとするなら(それを繰り返し吟味できるようにするなら)、話したことを録音するか、書いてもらうしかないのかもです。読むことが考えることだとすると、読んで考えて、それを作文に表したものは、読みのパフォーマンスとして評価できると思います。
次の学習指導要領の評価の観点が変わるらしいのですけど、このことが関連しているのかもです(どう変わるのか確認できていないです)。
読んで書いたものは、読みのパフォーマンスとしても評価できますし、作文(書く能力)としても評価できますね。言語活動そのものは、読み書きに分けられるけれど、関連し合っているようです。
そうですね。ただ、そこのところはモヤモヤするなあ。「読みのパフォーマンスを書くことで表現する」と言われれば、それはそうなのですが…。結局、書くことが得意な子が良い評価を得てしまいそうで….
「自己評価」を部分的にでも取り入れたらいかがでしょうか。
読書の習慣ができてきたか、どんな課題が自分にはあるのかなど。一般的に、人に評価されても、その後にはほぼ何も影響を与えないと思いますが、自分で感じたことなら、次につながる形性的な意味が生まれる可能性があると思います。
評価しがたいものをムリに評価する必要はないし、するとマイナスが多くなると思います。
おっしゃる通り、生徒には自己評価をしてもらうつもりです。ただ問題はいわゆる「成績」なんですよね…。自己評価に対して得点をつけるわけにもいきませんし。