国語の授業では、作家の時間と並行して読書家の時間も始まりました。とはいえ、初回はみんなで「窓の詩」を選び、その次は天気が良かったので屋外で本を読む「おそと読書」にしたため、読書家の時間のイントロダクションをしたのは、5月1日のこと。そこで読書記録の「読書1万ページ」の紹介をしたところ、毎年必ず出る質問が今年もやっぱりあったので、今日はそれについてのエントリです。その質問は「マンガは読書記録に入れてもいいの?」。さて、皆さんならどう答えますか?
そもそも、読書ページ数を記録することはあり?
この問いに答える前提として、そもそも読書記録「読書1万ページ」の是非について考えましょう。
この「読書1万ページ」は、自分が読んだ本のページ数を累積して、合計1万ページを目指す取り組み。もともとは、同僚のりんちゃん(甲斐利恵子さん)が公立中学校時代から続けている実践で、りんちゃんが風越でも続けているのを見て、小学校と中学校の国語の接続を意識して僕も取り入れるようにしました。りんちゃんも、一定の期間でページ数上位の子のランキングを発表していますが、僕はさらに丁寧に、毎週の国語教室通信で、1000ページや2000ページといった「切り番」を突破した子の名前を掲載し、1万ページを超えた子たちには、校長のゴリさん(岩瀬直樹さん)から表彰してもらいます。さらに、学期末などには、それまでの累計ページ数の推移を示したグラフの個票をつくって配り、自分の読書ペースを可視化する徹底ぶりです。
こんなふうに読書の合計ページ数を記録し、ランキングをつけることには、否定的な見方もあるでしょう。というか、僕も筑駒勤務時代に図書館司書/司書教諭の方々が中心の読書ノートをつくるプロジェクトに参加して試行錯誤していた時期があるのですが、ページ数を記録することには、当時の僕は否定的でした。読書の内実はページ数だけではないのに、ことさらにそれを取り上げることで、ページ数を稼ぐために文字が大きかったり絵が多かったりする本ばかり読むようになるのではないかと思っていたからです。また、ランキングにすることで子供たちの間に競争や序列意識が生まれます。これはとっても風越らしくない(笑)。だから、こういう試みを批判する気持ちは当然わかります。
読書1万ページを実践する理由
ですが、りんちゃんの真似をして読書1万ページを始めてから3年がたち、僕は、仮にそのような欠陥があったとしても、この実践を続けることに意味を見出しています。
何故かと言えば、読書ページ数を記録し表彰するだけのシンプルな取り組みで、それを目標に頑張れる子たちが、一定数以上、毎年少なからずいるからです。この事実は大きい。もしも、「序列化されて劣等感を持つ子がいるから」という理由でこの実践をやめたら、同時に伸びるはずの子たちを伸ばさなかったことにもなる。問題は、単一の基準での序列化が場を強く支配することで、そうはならない程度の範囲で「がんばり」をうながすために序列を用いることには、僕は問題を感じません。
もしもこれが趣味としての読書だったら、そうしなくても良いでしょう。でも大前提として、学校の授業時間に行われる読書は、趣味ではなく、国語の力を伸ばすための教育的活動であらざるをえません(単に「読書は良いものだから」では強制する根拠にはならないのです。ゲームも映画も、良いものは他にもたくさんあるのですから)。
そして、読書研究の成果として、自分がある程度理解できる本をたくさん読むことが、読みの流暢さや語彙の数を高めることがわかっているのだから、読む量を増やすのが大事なのも明らかです。まして、僕が受け持つ小学5、6年生は、ちょうどスマホを持ち始める時期。各種の読書調査や生活調査などから、毎日の読書習慣が30分未満の子たちがスマホを持つと、そのわずかな読書時間をスマホに奪われ、ほとんど読まなくなるという相関も推測されており、だとしたら、スマホを持つ直前のこの時期に読書量を奨励することは重要だというのが僕の考えです。
以上の理由から、「仮に多少の弊害があったとしても、読む量を増やすことに確実に貢献する読書1万ページは続けるべき」というのが僕の立場です。
マンガを入れる?入れない?
前置きが長くなりました。さて、その上で読書1万ページに記録する本に、マンガを含めるのは良いのでしょうか?実は、りんちゃんは、マンガは禁止と言っているそう。ちゃんとご本人に理由を聞いてないので、また聞いてみたいのですが、まあ、国語教師としては常識的な対応かもしれません。
一方で僕の場合は「それは人による。だから自分で決めて欲しい」と伝えています。どちらが言語能力の向上により望ましいかと言えば、文字だけの本をたくさん読む方が望ましいでしょう。近年では、国語科の守備範囲をマルチモーダルなテクストに拡張する見方も強まっていますが、それでも、文字中心の本の文法とマンガの文法は異なり、読書家の時間でも主に前者を想定していることは事実です。
とは言え、マンガも読解力の向上に貢献する研究結果もありますし、何よりもこの読書1万ページの目的は、読むことを励まして、習慣づけることにある。だとしたら、読書が苦手な子がマンガを禁じられてページ数が全く増えないよりは、マンガをたくさん読んでページ数が増える方がずっとマシ、という見方も成り立つのではないでしょうか。
僕はそのように子供に説明して「マンガを記入することが励みになる子はマンガを入れてほしい。そうじゃなくて、自分は文字中心の本だけでいいよという子は、それで頑張ってほしい。いずれにしても僕が決めるんじゃなくて、自分で決めてほしい」と伝えています。
ただ、こうすると、真面目な子たちから不満の声も出るのも世の常です。自分は青い鳥文庫だけ読んで、7000ページ、あの子は漫画ばっかりで1万ページに行って表彰される。となれば、なんとなく不公平な気持ちがするのも当然でしょう。
最近では先回りして説明してしまいます。「だから読書1万ページのページ数は、多いから偉いとか、少ないから偉くないとかそういうものじゃない。自分に合った本で、自分に合った目標を作って頑張って欲しい。たとえ文字ばかりの本で7000ページまでしか行かなくても、その頑張りは自分が一番よく知っているはず。それを大事にしてほしい」
ちょうどそんなことを語ったのが、先週の金曜日でした。
マンガを認めるもう一つの理由とは
当たり前ですが、この僕のセリフには、矛盾や疑問が潜んでいます。一方で、読書の累計ページ数を記録し、発表し、グラフにしたり、表彰状を与えたり、明らかに「数を競う」「煽る」営みをしている張本人の僕が、他方で「ページ数が多いからって偉いわけじゃない」と言うのですから。
でも、これはどちらも本心です。両方の声掛けが必要なのです。何回かこのブログでも書いていますが、「ありのままのあなたでいいよ」と「でも、いまのままではいけないよ」が共存する教育とは、そもそもそのような矛盾や疑問をはらんだ営みだということを、忘れてはいけないでしょう。教師に必要なのは、一つのわかりやすい原理で自分の行動を貫くことではなく、矛盾した2つの声がけを、矛盾と知りながら、どちらも行う姿勢なのです。
というわけで、僕は一方で「数」を強調しながら、他方では「数だけが読書じゃない」と語ります。このとき、読書1万ページでマンガの記録を認めることは、それによって単純な数値の大小の比較を無意味にし、その序列化の効力を弱めるほうに働きます。つまり、僕にとっては、マンガの容認は、序列化のしんどさを少しでもやわらげる戦略でもある。
ここまでは子供たちには話していませんが、でもそんな理由で、僕は読書1万ページの記録にマンガを入れることを、僕は本人の意思に任せています。この読書1万ページ、去年は学年の半数弱の子が1万ページを突破しました。今年も、少しでも多くの子のやる気につながることを願っています。