夢中になりにくいからこそ主体的になれる、「紙の本」というコントローラブルなメディア。

読書教育サービス「ヨンデミー」の笹沼颯太さんが、堀江貴文さんの番組REAL VALUEに出演したことが、先日話題になっていた。で、今日はこの番組の内容にからめながら、そこから刺激をうけて、紙の本のメディアの特性についてあらためて書いてみたい。

一年で一番気持ち良いこの時期の朝の校舎。実は先日、ヨンデミーの社員さんも風越に見学にいらしたばかりでした。

【REAL VALUE登壇者】東大卒の天才ヨンデミー笹沼さん直後インタビュー!【ブランドバッグ田中】

REAL VALUEの番組の番外編である、ブランドバッグ田中さんとのやりとりもかなり良かった。よい補助線になる動画だった。

この番組、全体的には「読書教育サービスという市場規模の小ささを指摘する登壇者たち」vs「それでも自分の信念を貫きたい若い起業家」という図式だったのだけど、見ていて思ったことはいくつかある。

個人の体験談で語ってしまう問題

最初に気になったのは、「読書は読解力をのばすか」という問いに対して、読書の効果を実感する人からそうでない人まで、いろんな人が個人の体験談で語ってしまうことだ。まあ、人間ってそういうものだから展開としてはわかる。また、そりゃあ、個人差は色々あるし、「いや、自分は本を読んでないけど成功しているよ」という人ほどそれを声高に語りたくなる気持ちもわかる。しかし全体として、読解力の大きな部分が(書き言葉の)語彙に依存し、読書が語彙獲得の有力な手段であることを考えたら、いろんな研究ですでに指摘されている通り、読書が読解力の向上に貢献すること自体は、もはや否定しがたいと思う。

問題は、この効果に「誰でも」とか「必ず」とかつけてしまうことで、読書の効果については、個人差も大きいのである。詳しくは僕のブログも読んでほしいのだけど、猪原敬介『読書効果の科学』では膨大な、読書研究をレビューして「読書の効果はあるが、急激ではなく、穏やかである」ことや「遺伝的・環境的に恵まれている人ほどその効果を得やすいが、一方で、読書があわない人もいる」ことを指摘している。読書の効果に関する個人的体験談の幅が広くなるのは、こうした理由がある。

おそらく笹沼さんはこの本を読んでいらして、でも読書教育サービスを推進する立場上、「誰でも」と言いがちな(言わざるをえない)立場があり、逆に登壇者のみなさんはこの本のことは全く知らないので、N=1+αの経験談で語っている感じだった。そこを押さえておかないと、見る側も、自分が共感できる体験談に引き寄せられて「そうそう」とうなずくだけになってしまうだろう。

動画と読書の違いとは?

この番組のハイライトの一つが、笹沼さんの事業に懐疑的な堀江さんが「動画と文字の情報(読書)に本質的な差はない」と発言して、それをめぐるやりとりがあったことだ。

この違いは、たとえば「電子メディアの書籍と紙の書籍の違い」と違って、ベースとなるテクストの情報自体が違うので、条件をそろえた研究がしにくいはず(たとえば、小説の「薬屋のひとりごと」とそのアニメ版は、動画になった時点でさまざまな解釈にもとづく新情報が付加されるので、もはや同一とは言えない別作品だろう)。単独で動画の学習効果とか紙の書籍の学習効果とかを論じた研究は多数あるだろうが、条件をそろえて「動画と紙の効果にどんな違いがあるか」を研究はまだまだ少ないのかも。勉強不足なだけかもしれないが、自分はあまり知らない。だから、以下は個人的な考えの話。

紙の本は「夢中になりにくい」メディア

まず、笹沼さんは「読書は能動的、動画は受動的」と言っていたが、僕も大雑把にはその通りだと考えている。もちろん能動/受動に明確な線引きはないし、受け取り手(視聴者・読者)の能力にもよるのだけど、あくまで傾向の話で言えば、動画は受動的だろう。それは、動画が多くの情報刺激によって、人の注意をひきつけること(言い換えれば「夢中にさせること」)と関係がある。人は音声・視覚を駆使した動画に注意をひきつけられる。ひきつけられるということは、それだけ操作の主体性を失い、受動的になるということだ。一方、文字列を追うのみの本は、動画に比べて夢中になりにくい。だから、多くの人が本よりも動画を選ぶのは、ある意味で自然なことである。

紙の本は「コントロールしやすい」メディア

しかし、夢中になりにくい本には、それゆえの強みもある。それは「読み手がコントロールしやすい」ということだ。本は、スキミングから丁寧な熟読まで、ページをめくる速度を読み手が自在に操れるし、途中でいったん本を閉じて休憩することもできる。また、わからなくなったところまでもどってもう一度確認することもできる。こうしたコントロール性は、紙の本というメディアの大きな強みだと思う。

こうしたことは、理論上では動画でも可能だが(巻き戻しや再生スピードの変更など)、でも、体験ベースでは動画よりもはるかに紙の本のほうが起きやすい事象である。夢中になってしまう動画では、視聴者はスピードなどのコントロールをすることを忘れてしまう。逆に本は夢中になりにくいからこそ、読み手は自分のペースで読め、手を使っての速度変更やいったりきたりが自在にできる。付箋をはったり、線をひいたり、余白にメモをしながら読むこともしやすい。本は手でコントロールしながら読むメディアなのである。こうした特徴が、書かれている内容を深く理解したり、あるいは読書会のようなかたちで他者と共有・議論しながら再読したりできるという、読書の特徴にもつながっている。これは、他のメディアにはない紙の読書の強みだ。

番組で笹沼さんも言っていたが、動画で見たり音声で聞いたりするよりも、本のほうが記憶にも残りやすい人はずっと多いのではないか。それは、本の持つコントロール性の良さが、より主体的な読みを可能にするからである。

というわけで、「夢中になりにくいからこそコントロールできる」紙の本というメディアと、逆に視聴者を夢中にさせる代わりにコントロールしにくい動画とでは、情報メディアとしての性格が大いに異なると僕は思う。それを端的に言えば、「本は主体的、動画は受動的」ということなのだろう。もしかして多くの人は楽で刺激のある動画を好むかもしれないし、読むことの負荷の重さをふまえたらその流れ自体は変えられないだろうけれど、だからといって紙の本が無意味ということはないのだ。

「娯楽」ではなく「学習」としての読書

堀江さんが再三指摘していた、「マーケットが小さい」「読書が得意ではない人にそれ(読書教育)をやらせても大したことない」という点に対しては、実は僕も堀江さんと同じ考えを持っている。娯楽としての読書のマーケットは今後は小さいままかもしれないし、遺伝的に読書が得意ではない人に読書教育をしたところで、大人になったら読むようにはならないと思う。

しかし、再三繰り返すが、それは読書が動画に置き換えられていいという話ではない。「娯楽」としてはもしかして動画に勝てないし、読みたい人が読めばいいだけかもしれないが、「学習」としての読書には、たしかに学習に値するだけの価値がある。だから、「習い事」として読書を再定義しようとするヨンデミーさんの試みは、個人的にも興味深い。動画の時代に、読書の価値を強く打ち出して、「習い事」としての読書像を作り出していけるのかどうか、僕も期待して見守りたいと思う。

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