[留学日記番外編]長女の留学をきっかけに読み直した「いつか、世界のどこかで」

完全な雑記エントリ。イギリスの大学に進学が決まった18歳の長女が、金曜日に渡英しました。もともと日本の高校でも寮生活だったとはいえ、近い場所にいたので、本当に巣立ちの時、親離れ・子離れの時です。在学期間は4年間(イギリスで3年、ドイツで1年)。卒業したら日本に帰ってきてほしい気持ちと、「こっちのことは気にせずに、世界のどこででも、自分の人生を楽しんで」という気持ちの半々で送り出しました。とにかく、元気にすごしてほしい。

サムネイル写真は、エクセター大聖堂前の広場(カセドラル・グリーン)で本を読む長女。この時はまだ小学4年生だったのだ。ありふれた言い方になるけど、時が経つのは早い。当時、「家族にも青春時代というものがあるとすれば、今がその時だろう」と思っていたけど、ふりかえると、まさにそんな時代だった。

2015-16年の家族でのエクセター生活。ふりかえると、ぼくは自分の仕事のキャリアという点では学位やそこで学んだものをあまり活かさない方向に行ってしまったけど、こんなかたちで彼女の人生の道につながったことは、素直にうれしく、しみじみとしてしまう。

長女を空港で見送って帰宅したあと、やや感傷的に過去の写真や記録を見ているうち、留学時代について書いたエッセイが出てきた。2021年に、風越の「作家の時間」の自分の作品として書いたエッセイだ。僕の数少ない友人・ヴィクター・バークナーさんについて書いたもの。「作家の時間」作品集以外に特にどこにも公開していなかったのだけど、自分にとって大事な文章なので、ライフログとしてここにもアップしておこうと思う。ヴィクター、いつか必ず、会いに行くよー!

「いつか、世界のどこかで」(あすこま)

小さい頃から友達がいなかった。もともと人に合わせるのが苦手で、こちらが親しく思っても向こうがそう感じているとは限らないから、僕から誰かを「友達」と呼んだことは一度もない。高校の時も大学の時も、すぐに仲良くなってお互いを呼び捨てで呼ぶ人たちを、異星人を見る思いでながめながら、僕は誰に対しても慎重に距離を取って会話をしてきた。

そのせいか、僕は今でも「呼び捨て」が苦手だ。初対面で僕を呼び捨てにした教師への嫌悪感は今も覚えているし、逆に、教員になってからは、どの生徒でも必ず「〇〇くん」「〇〇さん」と呼んできた。妻とも互いをさんづけで呼び合う、そんな距離感が心地よい。

だから、「くん」「さん」をつけない世界には戸惑った。2015年に、仕事を一年間休んで、家族でイギリスのエクセター大学大学院に留学したときのことだ。皆が当然のようにファーストネームで呼び合う世界で、慣れない英語の洪水に押し流された。授業の初日から「イースキ」に近い発音で「エイスケ」と呼び捨てにされ、こちらも必死に笑顔を作って会話に参加しようとしたものの、社交どころか授業についていくのも大変だった。結局、ほとんどの時間を図書館に籠もって勉強に費やし、僕は周りの人間関係から取り残されたのだ。

その僕にできた大切な友達が、ヴィクター・バークナーだった。チリからきた彼は、若い学生が多い教育学研究科の研究室で、僕と同じ「年長組」。住まいも同じ家族向けの寮だったので、僕らはよく大学のキャンパスから一緒に帰った。40代半ばほどの風貌の彼は、何があってもユーモアを忘れず、最後には「まあ、なんとかなるよ、様子をみよう」と、いつもおだやかに目尻にシワを浮かべていた。そして、辛抱強く僕の下手な英語に付きあってくれ、「マイフレンド、エイスケ」と、とても明瞭に僕の名を呼んだ。僕も、年長者の彼に敬意と親しみを込めて「マイフレンド、ヴィクター」と呼んだ。

付き合うに連れてわかったのだが、ヴィクターは決して、頭が切れるとか、知識が豊富という言葉で形容される、優秀な学生ではなかった。英語力はもちろん僕より数段上だし、努力家ではあったが、日々のレポートでは、勉強量にものを言わせて好成績の僕よりも、むしろ苦戦しているように見えた。そこで、僕は彼に、一緒に勉強することを提案した。ヴィクターは僕の下手な英語を直し、こちらはヴィクターにレポートの構成や論理の穴を指摘する。週1回の、僕の家での小さな勉強会。「ハーイ、マイフレンド。ハウアーユー?」いつもおだやかな笑みでドアを開ける紳士のヴィクターは、我が家の誰からも歓迎された。

大学院の授業もなんとか軌道に乗った、冬のある日のこと。同じコースの学生たちと年齢の話になり、ヴィクターは「54歳だ」と言った。どう見ても40代なので「冗談だろ」と笑い合ったものだが、帰り道に聞いたところ、本当に54歳なのだという。「僕はもうすぐ60歳なんだ。チリではもう定年後の生活のことを考える年齢さ」。いつもの笑みを浮かべて、ヴィクターは笑う。失礼ではないか迷ったけれど、好奇心に負けて聞いた。「どうしてその年齢で留学したの?」。彼は、おおむね次のように答えた。

自分は、もっと若い時に留学して博士号を取りたかった。でも、その時には力が足りなかった。40歳くらいでも行きたかったけど、奨学金がなかった。今回、ようやく奨学金の年齢制限がなくなって、来られたんだ。自分に残された時間は少ない。お金に見合うリターンもないだろう。けれど、自分は学びたいんだ。

自分は学びたいんだ。その言葉が、とても力強く響いた。

実は、当時38歳の僕が家族を連れて留学したのは、「今が勉強できる最後の年齢だろう」という思惑があったからだった。40代になれば子どもも大きくなるし、親の介護もある。大きく環境を変えるのは難しい。勉強するなら今しかない、と。でも、ここに、自分よりも15歳以上も年上で、50代になって、大学院に来た人がいる。「学びたい」という、これ以上ない明快な理由で。大学の帰りのメインストリートの寒さと喧騒の中で、ヴィクターのおだやかな顔が、ひときわたくましく見えた。

「ヴィクター、その年齢で博士号にチャレンジするのは、本当にすばらしいと思う」僕は思わず、自分のことを話した。
「僕も、本当はここでヴィクターのように博士課程まで学びたい。でも、自分には仕事があるし、家族もいる。だから、一年間だけで帰国しないといけないのが、とても残念だ」
じっと聞いてくれたヴィクターは、「エイスケ」ときれいな発音で言った。
「子供たちがいると仕事は簡単には辞められないし、君は日本に帰らないといけない。でも、本当に願っていれば、いつかまたチャンスはくるよ」

この冬のヴィクターとの会話は、その後の留学生活も、修士号を無事にとって次の夏に日本に帰国して以降も、ずっと僕を支えている。何歳になっても学べる。そして、本当に願っていれば、いつかまたチャンスはくる。安定していた仕事をやめて風越学園に来たのも、何歳になっても挑戦するヴィクターの姿勢が後押ししてくれたからかもしれない。

帰国して一年以上たった2018年春に、僕たち家族はまたエクセターを訪れた。今度は妻や子どもたちの友達、そしてヴィクターに会うのが目的の旅だった。おそらく、家族でこの地に来るのは今回が最後だろう。そして、博士号を取ってチリに帰国するヴィクターと会えるのも、最後かもしれない。そんな思いを抱えながら、ヴィクターと再会した。

「ハーイ、マイフレンド、ハウアーユー?」 ヴィクターは、以前と変わらぬ柔和な笑顔で、僕を抱きしめてくれた。僕たち家族はヴィクターの奥さんのペルー料理を楽しみながらお互いの近況を語り、帰国直前にも、クリフトン・インというパブでランチを楽しんだ。

いつまでも別れ難かったけれど、でも、その時はくる。ランチを終え、少し歩いてから、シドウェル・ストリートで僕たちはお別れをした。「また会いたいね」と抱き合って。

率直にいうと、僕たちがすぐにまた会えるとは、お互いに思っていなかったと思う。僕は日本へ、ヴィクターはチリへ帰る。地球の裏側だ。お互いに歳をとり、家族も仕事もある状況で、気軽に旅をするには、あまりにも遠い。そのせいか、僕たちが交わしたのは、「いつかそっちの国に行くよ」や「必ず会おう」という約束ではなくて、「いつか、世界のどこかで会えたらいいね」という願いの言葉。Hope to see you again, somewhere in the world. それは、ちょっとかなしい響きの言葉だった。

あの言葉を交わした日から、ヴィクターには会ってない。その間に僕は長野県に移って、また彼の故郷から少し遠ざかってしまった。時折来るメールには、首都サンチアゴの暴動やコロナ被害のことなどが綴られ、本当に、今の僕から遠いところにいることが実感される。

こうして僕たちは会えないままで、また歳をとった。それでも、僕はヴィクターに会いたいし、会いに行くつもりだ。いつか、世界のどこかで。願っていれば、チャンスはきっと来る。そう信じる力を僕にくれたのは、ヴィクターその人なのだから。

(2021年7月12日)

この記事のシェアはこちらからどうぞ!