読書家の時間と「能力」をめぐる問題:日本国語教育学会のシンポジウムふりかえり。

8月11日(金)、山の日に東京に行ってきた。日本国語教育学会の大学部会主催シンポジウム「自立した読者を育てる読書指導」に登壇してきたのだ。シンポジウムのお相手は筑波大附属駒場中高の森大徳さんと国際基督教大学高校の仲島ひとみさん。2022年秋に筑摩書房から出た『中高生のための文章読本 読む力をつけるノンフィクション選』をともに編集した仲間、というよりも、そもそも同じ勉強会の仲間として学んできた同士である。

画像は7月末に甲武信岳に登りに行く時、途中の川上村から見えた朝焼け。あの真ん中の山の名前はわからない。はやくわかるようになりたいな…。

目次

シンポジウム形式への苦手感が募る結果に…

このシンポジウムという形式には、実は苦手意識が強い。シンポジウムって本来、単に登壇者の話を個別に聞くのとは違って、その登壇メンバーがそこで集まって刺激しあって新しい議論が生じることに意味がある。だから、「良い偶然が起きるように事前に準備をする難しさ」を感じる。2022年に、全国大学国語教育学会東京大会(オンライン)のシンポジウム「国語科のカリキュラムを考える ―コンテンツ・ベースとコンピテンシー・ベースの対立を超えて―」に登壇した時のエントリ改めて読んでも、そんな感じ…。(ただ、あの時は「概念型学習」を推進する遠藤みゆきさんや中村純子さんに対して僕が疑問を呈する図式があったので、論点は明確にできたかな)

シンポジウム「国語科のカリキュラムを考える」にパネリストとして参加しました

2022.05.30

今回も、シンポジウムという形式への苦手感は募る結果だった。明確な対立軸はないぶん仲間内の話みたいにはならないようにしようと意識はしていたけど、当日は登壇者3人がそれぞれ話して、フロアからの質疑応答に答えて終わり、と、正直、シンポジウムの体をなしてなかった。コーディネーターの松本修さんは「それでいい」と言ってくださっていたのだけど、自分ではなかなかそうも割り切れず、力量不足で申し訳ない。

石田さんのブログに救われた気持ち…

そんな中でありがたかったのは、横浜国立大学の石田喜美さんが、ご自身のブログ kimilab journal の中で、このシンポジウムの登壇者3名の話を、ご自身の理解で繋いで関連付けてくださったこと。

社会文化的コミュニケーションの中の読書~日本国語教育学会大学部会シンポジウム「自立した読者を育てる読書指導」

特に、僕たち三人が『中高生のための文章読本』を編んだときにも、ノンフィクションと物語を繋ごうとしていたことを読み取ってくださったのは、本当に嬉しかった。

なお、石田さんも言及した森さんの五行詩の実践は、僕もアレンジして今年度の授業開きとしてさせてもらった。下記エントリに書いてます。もともと東京学芸大学附属世田谷中学校の渡邉裕さんの実践で、この学会でお目にかかれたのも嬉しい。

出版までを駆け抜けた!2023年度最初の「作家の時間」は、五行詩作りから。

2023.04.29

「読む力」における「能力」の問題

自分にとってのハイライトは、僕の発表の時に最後に語った、ある子のエピソードを、石田さんが次のように言語化してくださった(引用部分の太字はあすこまによるもの)。

自分自身で「読める」し「読みたい」本もわかっているのに、かつて自分自身が読みたい本を読んでいたときに、他の子から、「まだそんな易しい本を読んでるの?」というようなことを言われて傷ついてしまい、自分の力ではまだ読めない本を読もうとしてしまっている子がいる、という話。

もしかしたらこういうお話は「背伸びしようと頑張っている」子どもの話(=美談)としてくくられることもあるのかもしれません。しかしここで重要なのは、澤田先生が、このエピソードを、「読めない子」が社会的に構築されてしまっている話として紹介していたことだと思います。

おそらく澤田先生は、「読み手意識(=「わたしは『読み手』である」という意識)」「書き手意識(=「わたしは『書き手』である」という意識)」を育むことを、なによりも重要視されていて、だからこそ、このように、「自分は『読めない』」というアイデンティティが集合的につくりあげられてしまうコミュニティそのものが「問題」として見えてきた、ということなのだと思います。

まさに書かれている通りの、「読めない」子が社会的に構築されてしまう問題。もちろんこれは古くからの、「〜できる」が、他者との相対比較で語られる以上「できない」子が自動的に生まれてしまう現象と根を一つにしている。ただ「読書家の時間」においては、「自分が好きな本がわかる」「自分に合った本を選べる」という、ある種の「能力」がある子が、別の「能力」観(読む力があるとは、難しい本を読めることだという「能力」観)を内面化することで、自分が劣っていると思って苦しんでいる。ここには「能力」観の相剋があり、そのパワーバランスによって、一人の読者が「読みたい本を読めない」状況に陥っているわけ。こういう状況を目の当たりにすると、「能力」なるものをどう考えればいいのか、と思ってしまう。

「自立した読者」とは、「『〜できる』読者」なのか?

そもそも、このシンポジウムのお題は「自立した読者を育てる読書指導」だった。この「自立した読者(読み手)」という言葉はリーディング・ワークショップ(読書家の時間)で大事にされているゴールイメージで、日本版実践書のサブタイトルにもなっている。

だが、この「自立した読み手」のイメージは人によって多様だ。そして、えてして「自分に合った本を選べる」「速く読める」「反応しながら読める」「毎日読める」など、結局は「〜できる」読者像として語られることが多い。ただ、「できるーできない」という尺度の中で語られる限り、「楽しんで読める」「自分に合った本を選べる」という態度目標的な「できる」よりも、「毎日読める」「速く読める」「難しい本を読める」のような、一直線上に数量化・可視化できる技能的な能力が優位に立ってしまうことは、人間の「測りたがる」傾向を考えたらおそらく避けられないだろう。

この問題が複雑に感じられるのは、「数量化・可視化できる能力」自体を否定してもどうしようもないというか、それはそれで一つの技能=能力だと、僕自身も考えているからだ。前者が正しくて後者が間違いと単純に断じられたら良いが、現実はそんなにわかりやすくなく、きっと、色々な「能力」観があり、それぞれがそれぞれに真実を含んでいる

また、「自立した読者」像の真ん中に、個人内在的な「能力」(〜できる)を置かないことは可能なのだろうか?とも考えてみたが、何を置こうとしても結局は「〜できる」力を置いてしまうことになりそうで、これはうまくいかなかった。「自立」という言葉は、今のところ「なんらかの能力」と切り離せそうにない。(ここは、切り離せるよ!という方のお話も聞きたいところ)

自分はどうしたらいいのかな…?

さて、この問題に関して、僕はどうしたらいいのだろう。当面は、この子が心地よく自分の読みたい本を読める環境を作りたい。夏休み前、この子に「自分に合った本を選べるのはとてもいいこと」「でも学校で周りの目が気になるなら適当にやり過ごしてもいい」「代わりに家で読んでみたら」と伝えた。授業では、「小学生のうちに出会って欲しい本」のような形で、彼女が好きな本を全員に勧めるだろう。そういう、「教師ー児童」間のやり取りでできることもある。でも、子どもたちがお互いに書き手=読み手として尊重し合えるような集団を作ることのほうが、よほど大事だ。結局のところ多くの子は子ども同士の関係の中で傷つけられもすれば、救われもするのだから。

そして僕は、もしもこの子が今後読書経験を重ねて、文字のもっと多い、小さい本を読めるようになったら、「わあ、ずいぶん難しい本を読めるようになったんだねえ」とそれを祝福するのだろう。それが、今の彼女を苦しめている価値観を肯定することでもある、と承知の上で、だ。二枚舌もいいところ。本当にそれでいいのだろうか。でも、きっとそうすると思う。

何を言いたいのか、はっきりしないエントリになった。「作家の時間」も「読書家の時間」も、学校の授業である以上は何らかの「能力」を育てるものなのだけど、「能力」にこだわるとそれによって苦しむ子も出てくる。「能力」が本当は個人内在的なものではなく、社会的に構成されるもの(文脈に左右されるもの)であることは、いくつかの本で指摘されている(例えば下記の本など)が、それは「だから能力はどうでもいい」とか「能力を気にしなくていい」ということではない。学校は夢と魔法の王国で、そこから出たら夢が覚めました、というわけにもいかないのだから。

学校で「能力」をどう扱えばいいのかよくわからないまま、僕はある時はある能力が大事だといい、別の時は同じ口でそんなのどうでもいいと言うのかもしれない。この辺は我ながらいい加減だ。しかし、その「能力」の中身は常に再検討する必要があるし、ある能力を自分が称揚するときに、どんな価値観を子どもたちに刷り込もうとしているのかには自覚的でいたい。そんなことを頭の片隅に置いて考えながら、もうすぐ始まる二学期の授業も頑張ろうと思う。

 

 

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4 件のコメント

  • 構築主義的に捉えられる現象としての「読めない」問題と、近年あすこまさんが探求されている読書家の時間や作家の時間のアプローチが一直線につながり、腑に落ちるエントリーでした。

    しかし「自立した読者」って果たしてなんなんでしょうね? 本はたくさん読むけれど、話題になっている本を買ったり読んだり、仕事の上で読んどかないといけない本を読んだり、読まないで積読だけだったり、私自身自立したところなんて何もないじゃないかとも思います。

    「自立」も「主体性」もだいぶ手垢でベトベトになってきた気がします。
    読書家の時間でどんなゴールイメージを教師が持つべきなのか。そんなことも考えられるエントリーでした。

    • ありがとうございます。自立した読者(independent reader)という概念は、「自立した書き手」と並んでこの界隈の実践では相当古くから使われているとは思うのですが、実際、どんなふうに説明されているのでしょうね。ただ、いわゆる「能力」的な見方も決して否定されるべきものではないと個人的には思っているので、その辺のゴールイメージがどうしてもぶれてしまうのかもしれません。

  • 検索でたどり着き、興味深く記事を読ませていただきました。
    こちらの記事の、本を読む能力・選ぶ能力の話はとても示唆に富んでいて、読書について考え直すきっかけになりました。
    私は、小学生の頃に担任の先生から、漫画でも何でもいいからとにかく文字を読みなさいと励まされ、今に至ります。あの助言は、本当に勇気づけられました。
    「そんな簡単な本を読んでるの?」というやりとりは、頻繁に起こる出来事で、なるほどこうやって劣等感が生まれていくのかと気づかされました。
    個人的な見解ですが、これはこの言葉を発する側の生徒のケアも必要なのかもしれないと思いました。
    それは、その子が高い能力を有しているにも関わらず、その子自身が思うほどには認められていない(褒められていない)ことの現れに感じました。
    人は優劣をつけ、競いたがるものかもしれませんが、同時にその子の不安も現しているのではないかと思います。
    測定可能な、点数のようなものを褒められたとしても、その子は本質的に、自分そのものが認められていないと勘づいているのではないかと。
    だから能力が下の(ように見える)人に対して、そういう発言をしてしまうのかもしれません。
    私を含め周りの大人が、例えば本当に心から、絵本や漫画を読むことをすごいと思えているのならば、その子は変わるような気がします。
    物事を楽しむ能力は、かけがえのないものだという実感を、私も心から持てるようになりたいと思いました。

    • ありがとうございます、「言った側」の子がそういう価値観にさらされて生活をしていること、そのことにストレスも感じているだろうことは、ご指摘のとおりですよね。ケアが必要というところもふくめておっしゃるとおりだと思います。ただ、現実にそういう価値観を内面化せざるをえない(子どもに関係するところだと中学受験などが典型的でしょうか)のもたしかな環境の複雑さを感じるところです。