金曜日、東京方面にリーディング・ワークショップ(読書家の時間、以下RW)の授業見学に行ってきました。訪問先は、昨年度から学校の1コース全体でRWに取り組んでいる私立中学校。中1・中2・中3の合計4コマのRWを見させてもらいました。これだけたくさんのRWを一度に見られるだけで感激…!今回は授業にお招きいただいた形だったのですが、むしろ僕のほうがとても勉強になることが多かったので、忘れないうちにメモします。
目次
1年間のRWの効果を実感!
大きく印象に残ったことは2つ。一つは、今年からRWにとりくんでいる中1と、去年から継続している中2・中3で生徒の様子が全然違っていたこと。2つの中1クラスは、担当の先生による個性の差はあれ、正直、どちらもこれから伸びる状態の子どもたち。遠慮なくインタビューして聞いて回ったところ、本を選ぶ基準が表紙やタイトルだけだったり、「5分後」シリーズやディズニー映画のノベライズがとても読まれていたりと、「まだ選書の基準ができていないな」「良い本に出会えていないな」と感じる事が多かった。でも、それがRW2年めの中2や中3クラスになると、もちろん個人差こそあれ、全体として読まれている本が全然違っていたのにびっくり。話を聞くと、先生からのお勧めや、司書の先生が作る新着コーナーなど、いろいろな情報を参考にしながら本を読んでいる。先生方のお話だと、もともと選書傾向が違っていたわけではなく、この子たちも去年までは「5分後」「ディズニー」ばかりの日々があり、ようやくそれに飽きる時期が来て…と段階を踏んでこうなったとのこと。
この学校では、週5コマの国語の授業のうち3コマをRWにあてているそう(残り2コマが漢字や古典などの学習)。いわゆる教科書を使った授業はほとんどしないのでかなり思い切った時間配分だ。でも、先生方の関わりの中でそれだけの時間を読書に費やすことで、こんなにはっきりした結果が出るんだなあ。はっきり見える、RWの効果。まだ一年目の風越学園スタッフとして、率直に言ってとても励まされました。
読まないでカンファランス
もう一つ強く印象に残ったのは、そのうちの中2クラスについて。このクラスを教えるY先生は、冒頭に生徒によるブックトークを取り入れたり、先生が詩を読むときの考え聞かせをしたり、「優れた読み手が使う方法」を重視したりと、吉田新一郎さんが翻訳してきたRWを相当勉強してきたのだろうな、という先生。そのクラスの子たちが読む本が、なんというか、良かったんですね。辻村深月、梨木香歩、川端裕人、東野圭吾、安東みきえ、田中るみか…という面々。どれも中学生が読む本として納得だったし、僕が「読まなきゃ」と思ってる本も多くて、「きっとこの年代の子にふさわしい本を先生自身がたくさん読んで、それをブックトークやカンファランスを通じて手渡してきたんだろうなあ」と思っていた。でも、あとでご本人に聞くと、実は読んでいないものがほとんど、ということ。この先生は、カンファランスも「理解のための方略」にしぼったことばかり聞いていて、本の内容の話はほとんどしていないそう。てっきり、「生徒に手渡す本を頑張って読んでいる先生」だと思っていたので、「いや、実は…」というお返事がとても面白かった。ああ、それもありなんだなーと。
それが面白かったのは、その返答が、風越学園での僕の悩みとか迷いに関連するから。僕自身は「作家の時間の根幹には教師が書くことがあり、読書家の時間の根幹には教師が読むことがある」と信じて疑わない人間だ。それは、「勉強する姿を見せない教師が勉強しなさいと言っても説得力がないよね」という素朴な信念とともに、私淑するナンシー・アトウェルが、まさに「自分も書き、自分も読む」人だったからである。アトウェルと彼女の学校の先生たちは化け物で、生徒が読む本をかなり読んでいる(下記エントリのQ&Aを参照)。
ただ、僕がそういう人たちに憧れて近づきたい一方で、風越の他の同僚にそれを求めることはできないな、とも思っている。それをやると永遠に本を読み続けるので絶対に勤務時間内に収まらないし、そもそも、みんな国語教育の専門家を目指して風越に来ているわけでもない。自分の個人的な信念と、それを周囲には押し付けられないな(でもいい授業をやるには必要なんだけどな)という思いの板挟みは、僕が風越で感じていることの一つだ。
そういうわけで、自分が本を読まずに、でもいいチョイスの本を生徒に読ませているY先生の存在は面白かった。考えてみれば、アメリカのRW指導者にだって「本を読んでない先生」はたくさんいるのだ(下記エントリを参照)。
正直、僕は好きではないのだけど、「個人の実践」ではなく「学校の取り組み」としてやる時にまず目指すのは、やはり「少ない読書量でできる仕組み」なんだろうなと思う。先生が本を読んでいなくても、司書の先生を頼りにしたり、生徒同士をつなげることで、ある程度の成果は挙げられる、そんな仕組みの構築。もちろん「教師が読んだほうが効果は高い」のは間違いないし、何よりそっちのほうがカンファランスしてて教師も楽しい。でもそれを「だからそうせねばならない」にしてしまうと、読書の暇がない教師には、RWができなくなってしまう。
このクラスの授業を見学できたのは、自分にとっても良かったなと思う。勤務時間内でスタッフ同士で児童書を読む機会や児童書の情報交換をする機会を作って、最低限の「基本書」みたいなリストは同僚間で共有しつつ、生徒同士のブックトークや共有をもっと活用して、持続可能な形をさぐっていこう。
放課後には、このクラスの先生を含めて、中核になる先生方とお話をした(実はその時間の会話でY先生が、かなりの読書家であることもわかった。読んでないと言いつつやっぱり読んでるんじゃん!って思ったけど、ヤングアダルトものは読んでない、ということのようです)。Y先生や主任のS先生をはじめ、皆さんとてもよく生徒のことをよく見ていらして、生徒への愛を感じる。そういう先生方と、RWの実践家同士として、楽しさや不安を分かち合えた良い時間だった。
RWへの確信と楽しさ
僕たちが直感的に確信しているのは、「教科書の分量をいくら精読したって、圧倒的に量が足りないよね!」ということ。もちろんRWは万能ではなく、それによってできないこともあるけれど、でも、読み慣れることを通じて読むことが好きになり、語彙やスタミナを獲得しないと、いくら「精読のための文章の読み方」を教えたところで、実際の文章を読めるようにはならない。この学校の生徒さんたちの一年間での変化を見れば明らかなように、この実践にはとても価値がある。僕たちはその思いを共有している。
また、特に中学生以上の教師にとっては、この実践は楽しいと思う。通常の一斉授業よりもはるかに、読み手としての生徒のことがわかるからだ。「担任の先生よりもその子のことを知ってるなと思うことがある」と訪問先の先生方もおっしゃっていたけれど、僕にもそんなふうに感じたことがあった。一人ひとりと向き合っている感じは、一斉授業形式でこちらが一方的に授業を進行しているだけでは、なかなか得られないものだ。
「教えていない」不安に向き合う
こんな価値や楽しさを感じる一方で、僕たちは不安にもなってしまう。読んでいるだけでいいのか、必要なことを教えられていないのではないか…。これまでの授業法と違って、一人ひとりと話をするカンファランスは、生徒の情報収集をする側面も強い。生徒理解ばかり進んで、必要なことが教えられていない気がする。そんなお話を一緒にできて、これは、RWの実践家であれば誰もが直面する感情なんだな、と改めて感じた。
もちろん、単に聞いて回るだけでは、何も教えることにはならないだろう。でも、よく考えれば、生徒を理解せずにその生徒に何かを教えることはできないので、生徒理解だって立派に「教える」プロセスの一つなのだ。教えることへのプレッシャーのあまり、生徒から聞くことの価値を軽んじるべきではない。不安なら、「教える」手段はカンファランス以外にも色々ある。ミニレッスンを通じて、ミニレッスンをまとめるノートを書いてもらうことを通じて、読書ノートを通じて、他の生徒の選書を共有することで…そういう取り組みとカンファランスを組み合わせることで、いかにこの形式の中で教えていくかを模索することが大事。
楽しみと学習のバランス
また、RWでは、「教えていないのでは」という不安から、逆に、カンファランスできちんと教えなきゃ、という意識が高まりすぎ、ときにそれが「読むことの楽しさ」とのバランスを崩してしまうこともある。「個人の楽しみとしての読書」と「学習方法としての読書」のバランスも、この実践を続けると直面する問題だ。
そういえば、筑駒時代から僕の教室に来てくれていた東洋大学の勝田光先生が、先日、風越学園の僕の授業を見に来てくれて、こう言っていた。「前のあすこまさんは、教えることは一斉授業で教えて、RWでは読書の楽しみを重視していたけど、今はRWでも教えることを大事にしているように見える」と。そう、僕自身、ともすると「教えること」に意識が行き過ぎて、楽しさを毀損してしまう危険性を感じている。教えることは教えつつ、できるだけ本を囲っての楽しい会話になるように。ああ、そうするとやっぱりそのためには生徒が読んでいる本を読まなきゃ、と、原理主義の僕はそう考えてしまう…笑
易しすぎる本を読んでいる生徒には?
もう一つ勉強になった話は、生徒の選書への関わり方について。この実践をしていると、その子にとって「易しすぎる本」を読む生徒や、ずっと同じシリーズばかりを読み続ける生徒が必ず出てくる。それだけでは読む力がつきにくいので、僕らは別の本と出会うきっかけを作るんだけど、どう働きかければいいのだろう。
「この本は君には易しすぎる」とか「そのシリーズばかり読んでいてはだめ」みたいな言い方だと、その子の選書をあからさまに否定する形になってしまう….。僕の場合は「もうちょっとレベルアップできると思うから、それを読んだら次に僕のお勧めを読んでみない?」と言うことが多いのだけど、それも生徒はどう受け止めているのかな。
これ、具体的な解決策があるわけじゃないけど、S先生の言葉が印象的だった。実はその子自身も物足りないなと感じている、そのタイミングを見極めて新しい本を渡したい、そして、もともと読んでいた本を卒業したあとになって「あの頃、実は物足りなかったんじゃない?」と聞いてみたいとのこと。これ、素敵なスタンスだなあと思った。S先生は青国研でも学ばれたことがあるとのことで、なんとなくその風を感じる言葉だったな。
楽しさと悩みを共有できた時間
そんなわけで、朝9時から午後6時まで、たっぷり見てお話しできて、とても充実した時間だった。軽井沢にいるとなかなか授業見学に行けないけど、やっぱり授業見学は大事だ。いろいろなことを考えさせてもらえるし、同じ授業に取り組んでいる実践の仲間同士で、楽しさと悩みを共有し合えるのは、とても素敵。励まされて長野県に帰ってきました。うかがえて、本当に良かったです。
最後に、今回の流れでは触れられなかった授業見学メモを残して、今回のエントリは終わり。今度は風越のRWの授業も見に来て欲しいし、そのためにも頑張らなきゃね。本当にありがとうございました。
- 授業の最初に読み聞かせするのいいなあ。読み手としての教師を見せる機会にもなる。
- 自分の読書遍歴のエッセイを書くのも素敵。風越の卒業前にやってみたいなあ。
- 「ミニレッスンで学んだこと」をノートに書いてもらうと、学習内容の確認になる。受け身ではなく学んだことを使う意識が生まれる。
- 生徒のブックトークのあと、自分は聞いている子に質問を考える時間をとって質問してもらっているけど、単に感想を交流するでもいいなあ。