評論のリーディング・ワークショップ開始。評論の授業では何を教えれば良いのか。

今週から、ジャンルを評論にして、全5回のリーディング・ワークショップをやっている。自分にとってこれまでとは違う「評論」へのアプローチになればなと思う。と言うのも、この教科を教えてもう10年以上にもなるのに、「評論」の授業で僕たちが何を教えれば良いのか、いまだに掴みかねているところがあるからだ。

そもそも「評論」ってなんだ? という基本的問題

今回のリーディング・ワークショップでは、選書に困って「評論ってなんですか?新書を読めばいいの?」と聞いてくる生徒が多いのが新鮮な体験だった。これ、今までの卒業生も、内心そういう疑問を持っていた生徒は多かったんだろうなあ。でも、僕が当たり前に評論の教材を提供してきたせいで、それを僕に聞けなかったんだと思う。

高校の科目「現代文」における「評論」とは、けっこう奇妙なジャンルだ。評論を字義通りに捉えれば「政治、時事、文芸その他物事の価値・善悪・優劣などについて批評し論ずること。また、その文章」(日本国語大辞典の精選版)ということになるのだけど、「現代文」における「評論」はその中でも独自のカテゴリである。

まず明らかに特定のジャンル、人文・社会科学系の文章に偏っている(例えば「プロ野球評論」は掲載されない)。そして、多くは大学の先生のような、知識人と言われる人たちが書いていて、「頻出の作家」も存在する。その辺は、下記エントリでも書いた通りだ。

[資料] 高校「現代文B」(H30年〜34年版)8社17種類の教科書掲載評論リストを作成しました。

2018.05.03

加えて、語彙も生徒たちの日常の読書生活とは離れていて、難易度が高い。内容的にも、アカデミックなものが多く、話題についての前提知識や興味がない生徒には、読むのが厳しい。もちろん、それがうまく作用して生徒の世界を広げてくれる効果もあるのだが、多数派にとっては苦痛の種でもある。

では、評論は論理的で学術的な文章なのかというと、意外にそうでもない。もちろん程度問題なのだが、評論は論文ではないのだ。過去には、「評論が論理的でなくて気持ち悪い」と訴えてくる数学好きの生徒もいた。きちんとした定義づけや根拠のデータが示されない場合も多いし、評論では頻出だけど学術的にはあまり信頼がおけなそうな書き手もいる(誰とは申しませんが…)。

評論は論理的文章だけれど「論理的」ではない?

2017.01.16

そしてこの評論、高校の現代文では特権的と言ってもいいほど重要な位置を与えられている。一つは入試でよく出ているからでもあり、そして、このくらいの難度の文章を読めるようになって(つまり、自分で読書して知見を広げられるようになって)大学に入学してほしい、ということでもあるのだろう。

評論では、何を教えればいいのか?

このジャンル「評論」にどうアプローチすればいいのかということに、いまだに得心がいっていない。これまでは、評論を読むことを通じて、抽象概念を通して世界を見ることの面白さを伝えられるように、大学の学問の世界の入り口に立てるように、というつもりで授業を作ってきたことが多い。

そうすると、観光におけるポストコロニアリズムとか、セキュリティ社会における「自由」概念の変容とか、要は「生徒の興味を引く面白いコンテンツ」「それに対応した素材文」勝負の授業になる。そういう面白いコンテンツを積み重ねて、近代から現代にいたる大まかな潮流を紹介し、「学問的知見を眼鏡にして世界を見るって面白い!」と生徒が思えるように。

こういう授業はちょっと背伸びした教養講座のようで、知的好奇心のある生徒の多くは面白がってくれるし、ありがたいことに、卒業してから「あすこまさんの現代文を受けてて良かった。ああいうことを知ってから大学に入るのとそうでないのとは全然違う」と言ってくれる人たちもいた。

でも、これって「国語」なんですかね。国語とは違う「何か」ですよね。そういう疑問、現代文を教える高校国語教師なら誰もがぶち当たるんじゃないだろうか。コンテンツ勝負になると、いきおい「新書や単行本を乱読した素人が、素人ゆえの無知に基づく蛮勇をふるい、複雑な物事を(教える便宜と、自らの不勉強で)単純化して伝える」ことになってしまうので、その罪深さにそろそろめまいがしそう。巷の「評論文キーワード集」みたいな本も、ちょっと自分が詳しく知ってる分野だといい加減な記述してるなーと思うこともあり、きっと自分が知らない分野の信頼性もそんなものなんだろうし。でも、全ての分野についてちゃんと勉強するのは、超人でもない自分には到底無理な話である。

では、「国語らしく」と「読みの技術」(二項対立とか、同値とか、誰もが通過するアレです)に特化すればいいのだろうか。でも、それは実は、文章の難易度に関係なく読む時に使う技術なので、生徒からすると浅くて退屈な授業になってしまう。

それに、いくら基礎的な読みの技術を身につけても、語彙や背景知識がないと読めないというのも間違いない。身もふたもないことを言えば、おそらく評論を読めるようになる一番良い方法は「(基礎的な読みの技術を身につけた上で)語彙や背景知識を知ること」なのである。でも、背景知識(コンテンツ)を教えるのは、国語の教師の仕事なんでしょうか…僕らの専門性(というものがあるとして)って、本当にそれなんでしょうか…(ふりだしに戻る)。

リーディング・ワークショップは別の切り口になるか?

そんな進歩のない疑問を抱えながら、今年は評論に焦点をあてたリーディング・ワークショップをする。シンプルに考えて「生徒が自分の力で評論を読めるようになる」ことを目標にすれば、語彙や背景知識の形成という観点からも、自分で読む中で読みの技術を使っていくという観点からも、自分の興味やレベルから適切な選書をするという観点からも、こういう切り口もまた一つの「評論の教え方」になるのではないか、と思って。

生徒が自分の興味・レベルに合わせて、色々なタイプの評論から選べるように、まず、学校に採用見本として送られてきた教科書17冊を図書館のブックトラックに並べた。そこに掲載されている評論368本を全てリスト化して配布もした。それから、教科書の出典となる作品も、図書館にできるだけ揃えてもらった。これらはすべて、生徒が自分の力で「評論の森」に分け入って欲しいから。

もちろん、教科書掲載作品ではなく、自分たちで本を探して読んでくれて良いのだけど、「はじめて評論の森に分け入りたい」という人たちには、できるだけ入りやすいような環境が必要だ。僕はその環境を整えたり、一人一人とのカンファランスを通じて、彼らの理解度を確認したり、興味を持てる評論への橋渡しをできたらと考えている。

評論を教える上で、このアプローチはありなのかどうか、自分の授業のアップグレードのためにも、試行錯誤してみるこの5月。結果がダウングレードになりませんように…!

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