評論は論理的文章だけれど「論理的」ではない?

ただいま、分掌の仕事で「授業準備どころではない」忙しさです。本末転倒とはわかっているものの、学校ってこうなんだよなあ…と思いつつ、高校生の授業は評論の読解。先学期に新書リーディング・ワークショップで読書指導をしたので、今学期は評論の精読、いわゆる「読解」をする予定だ。今日は、その授業びらきのお話から。

そもそも「論理」ってなんなの?

僕の帰国後、9月から始まった授業。パラグラフ・ライティングの授業、新書のリーディング・ワークショップときたため、評論の精読をするのは今回は初めて。そこで「評論って何なの?」という話をする。「評論=論理的文章」というイメージがしみついているけど、最初の説明で僕が力点を置くのは、下記エントリで書いたような話。

分けられるのかな?「論理国語」と「文学国語」

2016.12.24

色々な区別の仕方があるのかもしれないけど、僕はいくつかの本を参考にして、「論理」には、大きく分けて以下の3つの種類の「論理」があるのではと説明している。

  1. 論理1:演繹的推論。前提が正しければ必ず帰結も正しい。数学や記号的な論理であり、最も厳密な意味での論理。
  2. 論理2:帰納的推論や仮説形成(アブダクション)などの推論。「論理1」と違って、前提が正しくても必ず正しいわけではないが、一定の説明力を持つ。
  3. 論理3:「論理1」「論理2」と比べると、より日常的な意味での論理。一貫して筋が通っていて説得力があると感じさせるような、議論の組み立て方。

評論における「論理」は「説得力がある」こと

大切なのは、評論のベースになっているのは、論理1や論理2(だけ)ではなく、むしろ僕たちの日常感覚に根ざした論理3なのでは、ということ。評論は、ある前提からスタートして、その前提とイコールではない結論を導き出す。この時点で、評論の論理は演繹的推論(論理1)ではありえない。また、評論における「論理」とは、決して帰納的推論や仮説形成のような推論(論理2)のことだけでもない。

そうではなく、ある主張を別の主張と比較して論じたり、比喩や具体例を用いたり、言い換えたり、そういうある種の論の運び方を、僕たちは「論理的だ」と認識するのである。この時、「論理的」という言葉は、「説得力がある」とほぼ同義である。

例えば、「言い換え」は評論の論理展開に頻繁に用いられるけれど(対比と言い換えをつかめとは、どんな現代文の参考書にも書いてある)、もし「言い換え」が本当にただの「言い換え」だったら、それは情報量としてはただの繰り返しに過ぎず、無意味なはずだ。にもかかわらず、評論文には「言い換え」が頻出する。それはなぜだろう。おそらくそれは、ある表現では届かなくても、別の表現でなら届く読者が一定数いるからだ。そして同時に、同じ内容を何度も繰り返されると、それだけで説得力を感じるような認知バイアスが、僕たちにはもともとあるからなのだと思う。

評論における論理とは、こんな風に、僕たちの日常感覚に根ざした「説得の技術」である。それは厳密な意味での論理というよりは、ある種のレトリックと言ってよい。時には矛盾する発言をして読者に謎を抱かせたり、面白いエピソードの魅力を使ったりすることも含めて、書き手は様々なレトリックを駆使して、読者を説得しようとするのだ。

論理の飛躍を魅力に変える評論

ある前提からスタートして、その書き手のアイデアを提出しようとする以上、評論には、必ず(厳密な意味での)論理的な飛躍がある。その飛躍を魅力的に見せて(あるいはさりげなく隠して)読者に「なるほど」「面白い」と思わせるのが、優れた評論である

そして、僕たち教師や生徒の仕事は、評論の「論理の穴」を見つけて「この評論は論理的ではない」となどと「主体的に」「批判的に」批評するよりも、第一義的には、その書き手がどのように「論理の飛躍」を魅力的に見せようと試みたのか、書き手の意図に沿って読んでみることにある。それは、「論理的文章の読解」という言葉からイメージされるよりも、はるかに文学的な営みなのだ。

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