批判的に読むことと、素直に読むこと

ツイッターで、こんなことを書いた。


昨今ではクリティカル・シンキングやらで、「筆者が書いた文章を受信するだけでなく、それを分析して評価する」姿勢が良しとされる。しかし問題はそれを「分析して評価する」視点がどこにあるのかということ。自分勝手に設定した視点から相手の文章を素材にして「この視点が不足している」とか「ここの説得力がない」とか「ここはこうしたほうが」などと賢しげに分析させても、本当に「賢しげな」だけの人を育ててしまう結果になり、あんまり良くないよなと思う。

僕が心から尊敬している、ある卒業生がいる。同僚と開催している有志生徒との読書会に彼が来てくれたとき、 彼は、後輩である現役生の発言に丁寧に耳を傾けつつ、現役生が文章のロジックの不備を指摘すると、「そうも読めるかもしれないけど」と前置きして、書き手の意図を活かそうとする読み方を開陳してくれた。彼の読みにかかると、文章の魅力が浮かび上がって、書き手も嬉しいだろうなという読み方

僕は、できれば自分もそのように文章を素直に読めるようになりたいし、生徒にもそのように文章を読んでほしい。もちろん「読解の技術」としては、筆者の論旨を手っ取り早く把握したり、そのロジックの飛躍に気づくことも必要なのだけど、実際に人間が書く文章である以上飛躍はあるのだし(飛躍のない文章なんて魅力的ではないのだ)、その飛躍にこそ、その人の人間らしさがいっぱいある。どうして筆者はこのことを言うのにこの比喩を使ったんだろう。ここで論理が飛んじゃってるけど、どうして飛んじゃったんだろう、そこに、筆者の思いがあるんじゃないか。そんな風に、「批判的に読む」にしても、その批判する時の視点は、あくまで文章の向こう側にいる書き手に寄り添った読み方ができるようになりたい。そうすれば、「批判的に読む」ことは 「素直に読む」ことと同じことになる。

作文で生徒の文章を読む時も同じ。北海道の石川晋さんのところに会いに行った時、晋さんが「僕は生徒の書いた文章はどんなものでも面白がれる自信がある」と言っていた。それは、本当に理想の読み方だと思う。どんなものでも面白がれる、というのは、読者が書き手に興味を持っていて、書き手に寄り添って読めることの証だ。作文の読み手が文章を読む時には、書き手に沿って読み、助言する時にはどうしたら書き手の意図をより良く実現できるか、そのためにどんな文章の知識を活用できるかを考えることが第一でないといけない。 間違っても、「面白くない」とか「説得力がない」とか、自分勝手な視点から、アマゾンのカスタマーレビューでも言えるようなことを言ってはいけないのだ。

そういう意味で、僕はもっと素直に丁寧に文章を読めるようになりたい。自分の考える「理想の文章のありかた」に相手の文章をあてはめて賢しらに分析するのではなく、相手の「理想の文章」を共有して、一緒にそこに向かって 行けるように読みたい。自然とそう読めてしまう人と違って、僕にはまだまだ練習が足りないようなのが残念なのだけれど、その目標だけははっきりしている。

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