「走れメロス」、なぜ走っているように読めるのか?

勤務校はいま文化祭シーズン。文化祭前の中学二年生の国語の授業は定番教材「走れメロス」だった。

目次

メロスは走っていない?話題になった中学生の自由研究

「走れメロス」というと、「メロスは実は走っていなかった」とする中学生の自由研究がSNSを通じて話題になったことを覚えている方も少なくないはず。その、愛知教育大学附属中学校2年生・村田真一さんの「メロスの全力を検証」というレポートは下記リンク先から入手できる。年度経過とともに削除される可能性もあるので、興味のある方は早めにダウンロードしよう。

算数・数学の自由研究 過去の受賞作品2013年度

http://www.rimse.or.jp/research/past/winner1st.html

「メロスのスピードは実は遅い」という話は僕は以前にも聞いた(or読んだ)記憶があるので、別に村田さんが最初の発見者というわけではないと思う。けれど、生徒からすると同じ中学二年生が詳細に時間を推定しての発見なので楽しいはずだ。うちの生徒も、まとめの部分をコピーして配布したら、興味深そうに読んでいた。

どうして速く走っているように読めるのか?

村田さんの自由研究が出てきたことは、授業者としてはとてもありがたい。メロスが「実は走っていなかった」のなら、「なぜ全力で走っているように読めてしまうのか?」という、それこそ表現に特化した問いをたてやすくなるから。というわけで今年の授業は、「メロスが全力で走っていると読者に感じさせる文体上の特徴」に絞った授業だった。誇張法、比喩、一文の長さ(句読点の数)、文末表現、反復表現、語り手とメロスの混交…とにかく、臨場感を増してスピード感を与える文体の工夫で出来上がっているような作品である。「実際は走ってないのにどうして走っているように読めるの?」と聞くだけで、こういう文体に生徒の目が向きやすくなる。

メロスがシラクスの市に帰る道を3分割してジグソー学習形式で進めた授業そのものは、活動の前に注目すべき観点をどこまで教えたほうが良いかという点で反省点はあった(もう少しポイントを教えたほうがよかったかな?)。でも、ブラッシュアップすればもう少し良い授業にできそうな手ごたえ。最後の授業では「太宰治の文体コレクション」と題して「駆込訴え」や「女生徒」などのほかの文体も紹介できることができて、こういう広がりは今までの僕の授業ではなかったかな。

扱いにくかった「走れメロス」、村田さんの自由研究に感謝

「走れメロス」は音読すると本当に気持ちよいし、ユーモアもあって、名作だとは思う。でも、どうしても道徳臭いメッセージとメロスの短慮で身勝手なキャラクターが目立つので、思春期かつ理屈っぽいうちの生徒は初読から「はいはい友情と信頼ね、美しい美しい」と「斜めの態度」で授業に臨みがちな作品でもある(思春期の少年たちは、あの作品を道徳臭く信頼を描いた作品と思ってしまう程度には賢く、また浅はかなのだ)。

その意味で、僕にとってはやや扱いにくい教材で、実際にあまり扱ってはいなかった。扱う時には、(文体についても触れつつ)中心はシラーの詩(小栗孝則訳)と比較するという定番のやり方か、あるいはセリヌンティウスの3日間を創作したりする感じだったのだけど、別の柱で授業を作る良いきっかけを、村田さんの自由研究が与えてくれたと思う。感謝。

おまけ「走れセリヌンティウス」

ちなみに「走れメロス」には森見登美彦『新釈 走れメロス』のようなパロディもあるが、僕の好きなのはながいけん『チャッピーとゆかいな下僕ども』にある「走れセリヌンティウス」である。特に、山賊を倒すときのセリヌンティウスの「気の毒だが私のためだ」は、原作のメロスの「気の毒だが正義のためだ」に対する皮肉交じりの秀逸なパロディだと思う。

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